上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。
- --/--/--(--) --:--:--|
- スポンサー広告|
-
トラックバック(-)|
-
コメント(-)
相も変わらず、一体何が正しいことなのかが分からなくなる時がある。
このままこうして年を取って、何かしらのわだかまりと不安を持ったまま生きて、そうして死んでいくのだと思うと、身の毛がよだつ思いがしてしまう。
結局のところ、自分が確信する正しさを信じて、それに身を委ねていくしかないのだとは分っていても、
やはりどこかで迷いと錯綜が生じてしまう。
そしてそうした独我的な信念だけにすがりついていくことに、正直限界があることには薄々この身で感じている。
人が人として<在る>ためには、必ず何かしらの「承認」が必要なのだから。
人間って生物界の中でひょっとしたら最も弱い生き物なのかもしれない。

- 2007/01/28(日) 03:55:57|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
もっと。
もっと上手く、自分自身をコントロール出来るようになりたい。
自分の気持ちが塞がったら、
その状態を現状より善くすることができるように、
自分の身体と精神をうまく自分自身でコントロールすることができるようになりたい。
この、制御のつかない身体という動物を、
うまく飼い馴らせるようにしたい。
この世界は舞台のようなものだ。
それぞれは皆プレーヤーで、
それぞれがそれぞれの役割を担って、ただただ何者かを演じているだけにすぎない。
何かをしなければならないという、
その役割に見合った使命感に追われて日々を生きていくものだとしたのなら、
人生に生きる意味などあろうか。

- 2007/01/23(火) 23:36:56|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
大切な、何かを見失っている。
常に立場性というものを念頭に置いていなければならないのに、
どうしても自己防衛に走ったり、自分内世界に閉じこもってしまう。
自分が何をしたいかではなく、相手が何をしたいか、何を欲しているかに慎重でいなければいけない。
自分の物語を紡ぎだすことは、大事なことかもしれない。
理想を打ち立て、現実でそれを実践しようとする試みは非常に意義のあることでもあると思う。
しかし、そこで自分だけが物語の主人公であり他の全ては脇役であると、自分以外の物全てをコントロールしようとしてはいけない気がする。
何故なら、他の人たち全ても、おそらく当人が物語の主人公であると認識しているに違いないからである。
ただ、物語を紡ぎだすにはどうしても他人の力がいる。
自分一人でそれを作り出すのは到底無理な話で、どうしても他人を巻き込むことになってしまう。
この際、その巻き込み方が非常に重要な問題となる。
例えば、相手にどうしてもやって欲しいことがあったとする。
それは自分一人の手ではどうにも負わず、分担して労力を分け隔てなくするためでもある。
この際そのやって欲しいことに対して、半ば強制的に無理強いをしてはいけない気がする。
これこそ、自分だけが物語の主人公で相手をコントロールしようとする気の表れであり、またそれは相手の物語の進行を妨げることにもつながる。
そうすることで、相手との隔たりも生じてしまう。
「情報」として、自分の問題意識を出来るだけ相手に伝えていかなくてはならない。
今自分がどういう問題を抱えていて、それに対する現実的処方にどのようなものが必要であるかを、「情報」として相手に過分なく伝達していかなくてはならない。
ここでは、自分がいかに問題に対して意識が強く働いているかが重要になる。
問題に対して軽薄な気持ちでいると、言葉の伝達の力も弱くなり、相手に強く働きかけることも出来なくなる。
そして「情報」として問題を伝達した後、相手がその問題に対してどのようにアクションを起こしてくれるかを待つしかないのかもしれない。
相手が当人の物語の中で、問題に対してどのように関わるか意識するのを待つしかないのだ。
相手の物語を強制的に自分の手に染めようとするのは禁物であり、相手が問題への能動的行動を起こしてくるのを期待して待つしかないのである。
それぞれが持つ目的志向というのはバラバラで、その矢印の向きが一致するのは極めて稀なことであると思う。
なので、物語を構築する際、その矢印を少しでも自分以外のものへ向けてくれるよう、働きかけを不断にするしかないのかもしれない。
最近、「やりたい」ことも見つからず、「やらなければならないこと」からも逃げてばかりいる。
あるのはただ現実だけで、それに対して自分に何ができるか考えを巡らし実行するだけなのに。
しょうもない、卑小な自己なんていらない。

- 2006/11/16(木) 03:21:05|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
何故、人は家族を作るのだろう。
バイトをしていると、
毎日決まった時間にやってきては食事をする家族をなん組か見掛ける。
とても幸せそうだな、と思う。
家族だけでなく、ご近所さんなのだろうか、
他の人とテーブルを並べて大勢で食事する人たちもいる。
そういう環境で育ってみたかった。
周りには常に家族やら知人がいて、
誰かと繋がっているという感覚が当たり前の状態。
今もそうだが、
小さい頃から常に一人で生きているという感覚があった。
命は共有されているというのではなくて、
自分一人だけが持っている。
だから、自分の命は自分で処理しなければならないし、
まして他人に迷惑をかけるなんてもっての他だ。
孤独に耐えられなくなると、
パートナーを探したり、家族を作ろうとするのだろうか。
でも、そのためには、
その相手を幸せにしなければならないという絶対条件が必要になってくると思う。
だから、自分には家族を作る資格など、ない。
他人を幸せにしてあげられる自信がないから。
自分が一番かわいい人間だから。
自分の孤独を癒すために、家族やパートナーを作って、
そうしてその相手をも不幸せにするなんて最低以外のなにものでもない。
自分は絶対に他人を幸せにすることなんか、できない。
相手を不幸せにして傷つけてしまうくらいなら、
独りで生きていった方がましだ。
憎しみと愛が常に共存しあうものだとしたら、
愛なんかいらない。

- 2006/08/11(金) 02:58:35|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
人との関係性を構築することほど、面倒くさいことはない。
なんというか、そうすることで、相手に対して意識的に働きかけるのがとても面倒くさい。
今まで大学3年間は、自然と人が集まる場所にずっといたので、自分から意識的に働きかける必要はなかったのだが、
この4月からは、そういった自分が定住する場所というものがなくなってしまったので、
新しい関係性を築くにも、またそれまでの関係性を継続させるにも、自分から意図的に働きかけないといけないというのが、とても面倒くさい。
あまり人といるのは好きではないし、独りでいるのが大好きだから、
そうした自分にとって苦手とすることを実行する時に、
自分の中でひとふんばりするというか、ハードルをぐいっと上げて意識的に頑張ろうとしなければならないのが、とても億劫で仕様がない。
今週一週間を振り返ってみると、かなり気が緩んでいたように思う。
そうなると、朝起きるのも億劫になるし、現実に出て行かないでこのままずっと布団の中で寝ていようという気が起こってしまう。
でも、そうしていると、約束事を取り付けていた相手からはメールが来るし、放っておいた現実が後ろからどんどん迫ってくる。
頭で計算して、感情で動いていないような自分がとても嫌になる。
人に会おうという気持ちは、会いたいという気持ちから発生するものではなく、自分の中での生きるモチベーションを上げるためのひとつの契機に過ぎない。
あの人に今会いに行きたいから会いに行く、というものは一切なく、
今この時点で会っていれば、今後の関係性を続けるためにも善い方向付けとなるであろう、と計算して頭で動いている自分がとても嫌だ。
結局のところ、こうした考えを持っているから人を好きになることができないのであろう。
もし、自分の意思とは無関係に、自分のこの身体が動かなくなってしまったら、一体だれが自分の面倒を見るのだろう。
家族には、看病してくれるくらいの恩情を自分が与えていないので、
とても申し訳なくてお願いすることなんかできない。
お金という契約で成り立った、ヘルパーでも雇うしかないのであろうか。
人を好きになるのにも、意識的な不断の努力が必要なのだろうか。
そういうのいらないのに、何故頑張らなくてはならないのだろうか。
将来の自分の身の保護のため、という目的的な理由で、
それをモチベーションとして人を好きになることなんて出来るのだろうか。
掴みかけた言葉が、今頭の中のどこかへ消えた。
世界を言葉ではなく、
身体全体で、感覚として感じたい。

- 2006/07/15(土) 04:14:11|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
なんというか、この現実に降り起こる問題に対して、悲観して嘆くばかりではなく、その問題、事実をどうしたら解決できるかを考えて、反省しなければならないのだと、思う。
問題を、楽観的に見過ごして、そのままにしてはいけない。
今やっている、バイトについて。
未だに、うまく波長の合った、善い動きをすることができない。
特に、自分を合わせて現場の人数が3人、という場合が特にそうだ。
人手が少ない分、お客が混んできた時は、いかに手際よく、そして協調して他の人と分担しながら動くのにかかっている。
この、”協調”という部分が、自分にとって最も苦手なのである。
とにかく自分は、人に頼ろうとせずに、自分で出来る範囲の仕事はなんでもかんでも自分一人でやってしまおうとしてしまう。
要領が悪いくせにそうするから、混んできた時にパニックになってしまって、ミスばかりをしてしまい、現場の人に怒鳴られ、その後の関係性が気まずくなってしまうのだ。
だから、まず大事なのは、まずは自分に与えられた場所の仕事をまずはきっちりとこなすこと。
3人で仕事をする時は、自分は洗い場と受付の両方を任されることが多い。
ここで、大事なのは、お客が混んできた時は、洗い場は後回しにすること。
なぜかというと、スーパー銭湯の客の流れというものは不思議なもので、混む時間というのが平日はほぼ8時?9時の間で決まっている。
この時間帯に、休することなくどっとお客が舞い込んでくるのだ。
だから、そういう時になったら、まずは受付を徹底してこなす。
そうしないと、出されたオーダーに狂いが出てしまって、料理を作っている調理場の人にも、そしてまず何よりお客に迷惑をかけてしまう。
調理場の人には、出されていないオーダーを間違って伝えて作らせてしまったり、注文を受けたオーダーを通さずに、お客から「まだ作っていないのか」とクレームがくることが多々ある。
一番、体力的に疲労感が大きく、仕事量が多いのは、やはり調理場なのである。
だから、受付をおろそかにしてしまって、調理場の人に余計な負担をかけさせてはいけないのである。
自分の最大の駄目なところは、一度ミスをして怒鳴られてしまうと、
それが尾を引きずって、いつまでも頭の中で反省して考え込んでしまうところである。
そのせいで、混んでいない時でさえ、初歩的なミスを連発することが多い。
正直、それが相手への信頼感を、一番に失くす。
ミスしなくてもいいところでミスをしてしまい、相手への負担を増やし、信頼感を失くす。
仕事のミスは、コミュニケーションではなくて、仕事で返さなければならないのだ。
あと、一つ思うのは、仕事に関して、同じ現場で働いているもの同士、もっといろいろ話しあうべきなのではないか、ということ。
正直、仕事のやり方に関して、それぞれが言いたいことは山ほどあるに違いない。
こういう時は、ああして欲しい、などと、相手に伝えることができる場があればいいのにな、と思ってしまう。
所詮バイト、と言ってしまえばそれまでなのだが、少ない人数でのシフトで、皆窮屈を感じながら働いているのは、目に見えて分かる。
どうしたら、もっと相手を信頼して、協調して仕事をすることができるだろうか。
問題に対して、それを形而上的なところに置いて、悲観して嘆いてばかりいてはいけない。
現実は、現実としてそこにある。
相手への無用な哀れみはいらない。
間違っていることを、それは間違っていると正すことこそが正しいことであり、現実への対処法のひとつであると、思う。

- 2006/07/04(火) 01:53:01|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
さよならをするのは、苦手だ。
バイトをやっていると、改めて自分の駄目なところが浮き彫りになって反省の連続だ。
最近調理場を任されているのだが、注文が次から次へと増えてくると、
もう何が何やら分からなくなってしまって、
お湯につけておいたラーメンの存在は忘れるは、
作ろうと思っていたつまみのメニューは作らずにほったらかしにしてしまうやらで、とてもお客が混んでくるとパニくってしまう。
前、調理師の人に、
「自分でやったことは最後までやり通さなきゃだめだぞ」
って言われて、ああそうだよな、確かにって思った。
要は、自分で手をつけたことは責任を持って、最後までやりとおさなければいけない、ということだろう。
そう考えると、自分はいかに色んな仕事を中途半端に途中でそのままにしてきたのかが、なんとなく分かってくる。
任せれた仕事はもちろんのこと、やろうと自分が思った、つまりモチベーションの高さに任せて自分から動いてやろうとした仕事でさえ、
責任を放棄して、途中でそのままにして放っておいてしまったことが多々ある。
自分は、思いつきで後先のことを考えずに行動してしまうことが多い。
仕事中も、与えられた役割に関係なく、目に付いたまだ成されていない仕事を勝手にやってしまうこともある。
そうした時に、この仕事を最後まで完成させるにはどうしたらよいかと、まず考えてから行動に移すのがいいのかもしれない。
形の完成形を頭でまず思い浮かべて、それに至るにはどうしていったらよいかを考えていかなくてはならないのかもしれない。
自分にとって、最大に苦手として、最も頑張ることを強いられるのは、
やはり人と協調して仕事を行うことなのかもしれない。
お客がいる時は、自分の与えられた場所での仕事をこなしていけばいいので、さほど問題ではない。
しかし、平日でお客が少なく、しかも現場の人数が4?5人と多い時は、仕事の忙しさとは別に、大変なことがある。
なんというか、その時の雰囲気を慎重に読みとらなければならないのだ。
お客がいなくても、混んできた時のために下準備をそれぞれがしている時もあれば、
それぞれが会話を楽しもうとしている雰囲気があるときもあれば、
はたまた何もしていなくて手持ちぶさたにぼんやりしている時もある。
そうした時に、ただ自分のしたいことを思いつきでやるのではなく、
この状況に対してどうしていこうかと、一旦頭で考えてから行動しなくてはならないから、仕事の忙しさとは別にとても労を呈するのだ。
「各共同体の善は、各共同体の善でしかない。」各々の共同体には、そこで成されるべき善がそれぞれ存在している。
しかしその善はその共同体の中でのみの善であって、それが他の共同体に通用するとは限らない。
それらの善に、程度の差はないし、それぞれがそれぞれで善いのだ。
だから、自分の眼前に現れたそれぞれの善に、自分のこの身を追いつかせていく必要があるのかもしれない。
人との関係性を築くにしても、人を好きになることにしても、人と最後に別れる時にしても、
この方が善いという、その善さにまったく近づいていない気がしてならない。
一番の後悔は、あの時もっと善に近づくように頑張ればよかったな、
というそういう後悔だ。
だから、次はもっとさよならをうまく言えるように。

- 2006/05/30(火) 14:54:07|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
常に、何かしらの問題意識を保ち続けなくてはならない。
ある特定の部分で、一定以上、もしくは一定未満、
自分の中で、頑張ることができたというちょっとした満足感を味わうと、
もうそこから問題意識を抱かずに、一歩身を引いてしまうこの癖をなんとかしなくてはいけない。
今やっているバイトにしてもそうで、洗い場を今日は一応自分なりにこなすことはできたので、あとはこの調子でやっていけば大丈夫だろうと、
精神がナアナアになるというか、もうそれ以上新しい問題を見つけて解決していこうという気にならなくなってしまうのだ。
しかも、ここで重要なのは、やることをこなすことが出来たというのは、それはあくまで自分のみの主観からにすぎないことで、
他の人の目からすれば、実はまだまだ問題点はあるのかもしれないということだ。
現状に満足してはいけない。
常に、今この現前で何が問題となっているのかを、考えていかなくてはならない。
何というか、本当にものすごく楽観的なのかもしれない。
本当は、少し先の自分の未来に対して大きな不安と危機感を覚えなくてはならないのに、
その未来に予測出来るであろう不安を取り除くためにすべきことを今まったくしていない。
とりあえず、ちょっと先の未来、明日とか明後日とか、
その範囲で何をしよう、何をしていこうと考えているだけで、
しかも、その選択も自分の長い範囲で考えた未来にとって果たして正しい選択になりえているのかも、全く見当がつかない。
こういうやり方で今までずっとやってきたけれど、果たしてこれでこの先生き長らえることはできるのだろうか。
「自己は、過去の経験的な自己の中からしか見出すことはできないのかもしれない」もう、自分とは誰かといった問題は、さほど重要でなくなってきているのかもしれない。
自分が誰であるかというのは、過去に行ってきた自分の経験からしか判断することができないのかもしれない。
過去の経験的自己が、他人との関係性の網において、どのような様相をなしていたかを客観視することが、重要なのかもしれない。
アイデンティティ探しの時代は、もう終わりが近づいているのかもしれない。

- 2006/05/18(木) 02:54:25|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
正直、何が正しいことなのかが分からなくなるときがある。
バイトをしていると、その日その日によって、その場の雰囲気が変わるのを感じる。
自分も含めて4?5人でやっているから、その日の場にいるメンバーによるのかもしれない。
はたまた、他の人はいつもと同じ動き方をしているのに、自分だけが普段とは違うな、と感じているだけかもしれない。
どっちかは分からないけれど、やっぱり現場の雰囲気は日によって変わるのを感じる。
仕事のやり方は、おおまかに2パターンに分かれている気がしてならない。
そう、協調型と自立型だ。
1年近く働いているパートのおばちゃんは、協調を重んじる。
協調というか、分担作業と助け合いを重要視している気がする。
まずは、自分に与えられた、洗い場なら洗い場と、そこでの仕事を完璧にこなした上で、手が余ったら他の苦労が多い場所の負担を減らすよう手を貸す。
一緒に働いているのだし、負担を分かち合おうといった考えからくるやり方なのかもしれない。
もう一つは自立型で、
現場の一応の責任者であるアルバイトで入っている人がそれを実践している気がする。
要は、スピードと要領の良さを求めているのだ。
個人作業を重視して、まず自分が出来る限りの仕事を自分で探して実践していく。
自分で見つけた仕事を譲り合って、共同してやっていこうとするものではない。
一人一人がそうやって的確に動いていけば、それだけ全体の利益が上がるといった考えからくるやり方なのかもしれない。
日によって、今日はこういう動きをしようと、それなりに考えて現場に入ることにしている。
今日はお客が少なそうだから、パートの人とのコミュニケーションを重視しようだとか、
または洗い場の仕事だけを徹底的にやろうだとか、
パートの人数が少ないから、分担作業の精神でやっていこうだとか。
仕事をしていて、自分は自立型が向いているのではないだろうかと思うことがよくある。
あまり他人の立場性を考えることなしに、とにかく自分で仕事を見つけて自分ひとりでそれを実践していく。
ただ。
周りの人の仕事の仕方を見ていて、
善いな、と思ってしまうのは、やはり協調分担型なのだ。
自分が善いと思える行動規範が、未だに自分の中で見定まっていない気がする。
やり方や、大きくいえば生きかたでの価値観というのは、本当に多種多様な気がしてならないし、その中でどれが優れているだとか、劣っているだとか、
そういうことも、はっきりと峻別できない気もする。
またその中で、自分にとってどれが善いのかということも、明確に決まりきっていない気がしてならない。
ただ、価値観は人それぞれだ、という考え方は、なんとなく避けた方がいいのではないかと思ってしまう。
それは自分が信ずる価値観が絶対で、他は許容することができないと、
自分以外の価値観と他との間に、明確な線引きを引いているようなものではないか、と思ってしまうのだ。
生き方ややり方に、その善し悪しはない。
それぞれが独立していて、それぞれが直線的に様々な色をなしているのかもしれない。
「相手を主体に自己を考えるのか、自己を主体に自己を考えるのか」相手にとって、善いと思えるような行動をすることが出来る自分でありたいと、最近よく思う。
相手がどういう人間かを見定めて、
その相手にとって自分がどういったことをすることが出来るのかを、
よく考えていかなくてはならないのだと思う。
関係性を築くというのはそういうことで、
相手に合わせるのだとかということではなく、
まして自分を押し殺すということでもない。
ただ、自分本位で物事を考えることなしに、相手が善いと思えるような言語交換なり、そういう状態を作り出していくことが重要なのかもしれない。
思いやりと配慮は、ともすれば自己欺瞞になりかねない。
常に意識を外に向け、自分本位の世界から脱出しなくてはならない。

- 2006/05/13(土) 02:15:23|
- 戯言(たわごと)|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
次のページ