突然ですが、
このたび、この逃源郷のブログを、
しばらくの間閉鎖することに決めました。
ここに書くネタがなくなったわけでもないし、
むしろまだまだ書き足りないくらいなんですが、
どうも最近、自分の言葉をこのブログの中だけに置いてきたような、
自分の考えの吐露口が、このブログのなかだけで完結してしまっているような気がしてきました。
所詮、このブログでの言論活動もただの机上の空論にすぎないのではないかな、と思ってきたのです。
なんというか、もっともっと現実社会にコミットしなければいけないような気がしてきたのです。
世の中や社会や、戦争、映画、自分以外の他者=世界について考え、
ここでその想いを書きなぐることなんて、所詮指先の行動にすぎません。
ということで、逃源郷開設以来約4ヶ月近くの間、
このブログを読んで下さった方々、コメントを書いて下さった方々、トラックバックをしていただた方々、通りすがりの一見さん、
みなさん、今までありがとうございました。
そのうち、気が向いたらまた何か書いていると思いますので、
そのときは、お気軽に立ち寄ってみてください。
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- 2005/08/24(水) 04:26:29|
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2000年に実際に起きた
岡山17歳少年母親撲殺事件に想を得た、17歳の少年が自転車で北国へ向かうまでの行程をカメラで捉えたドキュメンタリードラマ。監督は数多くのピンク映画を撮っている、時代のアウトサイダーこと
若松孝二監督。主演は俳優柄本明の実息子
柄本佑(”たす
[『17歳の風景 少年は何を見たのか』]の続きを読む
- 2005/08/20(土) 03:16:39|
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フランスで、「WATARIDORI」「ディープブルー」を超え大ヒットを記録した南極に生息する皇帝ペンギンの生態を追ったドキュメンタリー。CMでも話題のこの映画。けっこうヒットしているらしい。千葉の京成ローザは割りと空いていたけど、子供づれの親子がちらほら目に付いた。ちなみに、映画は吹き替え版でした。まあ、なんというか自然は厳しいってこった。ペンギンも、種を保存して、生き残るために命がけの戦いを強いられている。
一つ面白かったのが、皇帝ペンギンの群れはメスの割合が大きく、数匹のメスが一匹のオスを取り合いするシーン。あと、メスが自分の産んだ子が寒さのせいで死んだために、他のメスの子供を奪おうとするシーン。もうそれはさながら、昼ドラのような、愛憎劇に満ちたドロついた?ものだった。なんというか、この映画、核家族の防止につながるんじゃあないでしょうかね。この映画のヒットのおかげで、出生率が上がったら面白いですね。
- 2005/08/11(木) 01:10:11|
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ヒロシマを。
原爆を。
今さら、何が言えるでしょうか。
今さら、何を語れるでしょうか。
原爆は、恐ろしい。
戦争は、嫌だ。
その事実を、忘れてはならない。
歴史を、語り継いでいかなくてはならない。
TVが、
新聞が、
こぞって原爆60周年の特集をしております。
昨日のTBSでは、
原爆60周年特別企画たるものを、やっておりました。
今日の朝日新聞では、
大々的に原爆特集を扱っておりました。
その、厖大で世界的な歴史に、
どう向き合って立ち向かえばいいのでしょうか。
何が言えますか。
何を語れますか。
その歴史に、
浅はかな態度で対峙しようとしている。
同情。
憐憫。
可哀想。
涙。
痛み。
そんなもの、誰だって感じることができる。
それでも、
人はお腹をすかせ、食べたいものを食べ、
欲しい物を手に入れ、
行きたい場所へ行き、
自分が望む、やるべきことに望む。
それで、いいと思うのです。
時代は、変わったのです。
「そんなのは、わがままで自分勝手だ。
昔の時代に立ち返らなければ、戦争を考えることなどできやしないぞ!」
「僕は、今を生きているのです。」
今さら、何が言えますか。
今さら、何を語れますか。
「一本の鉛筆」
作詞 松山善三
作曲 佐藤 勝
あなたに 聞いてもらいたい
あなたに 読んでもらいたい
あなたに 歌ってもらいたい
あなたに 信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと私は書く
あなたに 愛をおくりたい
あなたに 夢をおくりたい
あなたに 春をおくりたい
あなたに 世界をおくりたい
一枚のザラ紙があれば 私は子供が欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば あなたを返してと私は書く
一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書くこの曲は、1974年の第一回広島平和音楽祭で、歌手美空ひばり氏のために特別に作られた歌だそうです。この前テレビ朝日の番組で流れていました。
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- 2005/08/06(土) 15:45:07|
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いや?、予想通り超つまらなかった。
まあ、特撮すごかった。
地面が割れるとこ、すごかった。
でも、
トム・クルーズの娘の救い方は間違っている。
この『宇宙戦争』は全世界に公開されるんだから、ティム・ロビンスを殺してはいけない。
若い息子は戦争に惹かれすぎている。
「アメリカは、最強の国。」
「あの日本でさえ、トライポッドを一体倒している。」
宇宙人は宇宙人であって、決してテロリストではない。
最後に、この映画も怖かったけど、
今日学校の授業で観た、アザラシの解体ビデオの方がよっぽど怖かった。
早く、こういう映画が世の中いやアメリカからなくなるといいな。
支払われた1300円は、一体何に使われるのでしょう。
ぼろくそ。
ぼろくそ。
追記:この映画を鑑賞中、映画館がぐらぐらと揺れました。
新手の映画館の仕掛けか何かか?
スクリーンと一緒に揺れまくる映画館ってのも面白いかも。
1300円払ったんだから、それぐらいしてもいいんぢゃん。
- 2005/07/28(木) 20:38:04|
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95年度カンヌパルムドールを受賞した「アンダーグラウンド」、他数々の作品で映画賞を受賞している
エミール・クストリッツァ監督の最新作。
公開2日目、シネスイッチ銀座にて、ほぼ満席。この「ライフイズミラクル」は「バッドエデュケーション」、「ヴェラ・ドレイク」に続いて今年どうしても観たかった内の一つだ。観た後の満足度で言えば、今年1番かもしれない。喜劇というものを多分に初めて観たけど、猫やら犬やらたくさんの動物が飛び出すは、管楽の音楽が鳴り響くは、壮大な自然が画面いっぱいに広がるはで、作風は今までに無いものだった。ただ物語は、
ボスニア戦争を題材に扱っているので、そうした社会状況が頭に入っていればもっと倍に楽しめたかもしれない。
その物語は、敵側の捕虜と恋に落ちた男が、その捕虜と自分の家族の一員を交換する立場に立たされ、恋をとるか家族をとるかの板挟みになるという実話を基にしたもの。舞台はボスニア近くの田舎村。村のすぐそばで戦争が起こっているというのに、終始映画は明るく楽しいムードに包まれている。
戦争という暗い事実を感じさせないくらい、人々は明るく楽しいユーモアに満ちた生活を送っている。だからだろうか、時折飛び出す銃撃や爆撃音がなぜか余計に痛ましく感じるのは。映画の中で、セルビア人が敵を銃で狙い撃ちしようとする場面が何度か登場する。その人の楽しい生活が一瞬にして壊れることが予想できて、血が激しく飛び出すわけでもなく、ナイフで切り刻まれるわけでもないのに、その殺害シーンは異常に痛ましかった。普段テレビやアクション映画で、人が撃たれて死ぬ場面なんて見慣れているはずなのにだ。
こういう喜劇の中にうまく盛り込まれた悲劇性が、戦争という現実を痛く感じさせてくれる。この決して結ばれないであろうセルビア人の主人公ルカと、ムスリム人のサバーハの恋物語は、パンフレットに
ボスニアの「ロミオとジュリエット」と評されていた。後半、喧嘩別れしていなくなったルカの後を必死で追いかけるサバーハ。その道中にはルカの衣服がいくつも木にくくられていて、行き着いた先の小屋ではルカが裸で待っていた!そしてその後、2人はベッドに乗ったまま空中を浮遊して、ボスニアの大自然を空から眺める微笑ましいシーンの素晴らしきこと!この下りが、この映画を今年1番のものへと押し上げました。
あと、もう一つルカの妻ヤドランカの狂気っぷりがまじウケた。この人出るたびに笑いが吹き出した。
ということで、最後に補足。ボスニア戦争の現実を描いた映画に他に
「ウェルカム・トゥ・サラエボ」があるのでこちらもおススメ。作風はこれとは180度違ってドキュメンタリー色の強いものだ。詳しくは作品名のリンク先へ。
あと、旧ユーゴの民族浄化の真実に迫った書籍に
『終わらない「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』(木村元彦著、集英社新書)があります。こちらもユーゴスラビアの現状を知る上で貴重な資料になりそうです。必読!(まだ未見ですが…)
- 2005/07/25(月) 01:12:01|
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04年度ヴェネチア国際映画祭で、金獅子賞と主演女優賞を受賞した「秘密と嘘」「人生は時々、晴れ」のマイク・リー監督最新作。
「バットエデュケーション」に続いて今年観たかったこの映画を、やっと観ることができた。上映会場のテアトル銀座の客層は、やや年配の方々が多かったような気がする。
内容は、
中絶問題の是非を問うものではなく、家族がそれを犯したヴェラをいかにして受け入れるかという家族愛を描いている。とにかく、この監督の映画は役者の演技が上手い、というより登場人物が実際にこの世界にいるんじゃあないかという錯覚を起こさせる。マイク・リーの演出方法は独特で、
俳優に自分が演じる役柄以外のことは知らせずに、脚本なしのリハーサルで即興劇を行うというものだ。そこで俳優達は、登場人物の役柄における徹底したリサーチを行い、その人物の生き方や仕草等を研究した末に本番に臨むのだという。つまり、
役柄を”演じる”のではなく、役柄として”生きる”ことを必要とされるのだ。だからだろう。これほどまでのリアリティを感じるのは。こうした”自分以外の他者”として生きる経験を得られるのは、役者という仕事以外にないのではと思う。役柄を生き、自己の主観性を排すことで、今まで見えなかった新しい自己というものもその作業の中で発見できるかもしれない。
あともう一つ、中絶行為が発覚してからの拘置所と法廷での後半シーン。ヴェラはただただ涙を流し、悲痛に満ちた表情をしている。正直、ここはヴェラに対する同情を引きすぎじゃないかなあと思った。ヴェラが一方的に断罪されるところは、
「ダンサーインザダーク」を思い起こさせて、「ヴェラ、かわいそう!」と叫びたくなった。あと何故ヴェラが法を犯してまで中絶行為を行うのか、その動機が全く語られていなかったので、多少の物足りなさを感じてしまった。もう少し、家族の問題とかヴェラの人物像を掘り下げて欲しかったなあ。
ちなみに最近こういう
”法・倫理”と”優しさ・愛情”の間で揺れるジレンマをテーマにした映画が多い気がする。「海を飛ぶ夢」「ミリオンダラーベイビー」では”尊厳死と愛”、「やさしくキスをして」では”宗教倫理と愛”が語られていたし。しかもどの映画も(「ミリオンダラー?」は微妙だけど)、
どちらか一方に肩入れすることなく、中立的立場を取っているのが特徴である気がする。それは、善/悪の単純な二項対立にとらわれない、問題の複雑さと価値観の多様性を示唆してくれる。勿論この映画も、中絶に対しての是非は問うていない。。
最後にこの映画は、
身近な人間、例えば家族や友人が犯した罪を受け入れて赦すことが出来るかという問いも含んでいると思う。自分の主観性を排さない限り、自分以外の存在を受け入れるのはなかなか難しいことかもしれない。そもそも、相容れない存在を許容するとはどういうことなのでしょう。映画は、家族がヴェラの帰宅をただひたすら”待つ”食卓のシーンで幕を閉じる。その行為の果てに、ヴェラ一家は再び平穏な日常を取り戻すことは出来るのでしょうか………?
- 2005/07/18(月) 02:12:43|
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「死の棘」「眠る男」の小栗康平監督、9年ぶりとなる最新作。
正直、今の自分では理解しきれない意味難解な映画だった。客席からは、オープニングあたりから早速寝息と思しき音が聞こえたし、かなり客を選んでしまう映画なのかもしれない。
物語には、はっきりとしたストーリーは存在しない。登場人物同士の関係性や、行動の理由付けがあいまいに描かれていて、かなりつかみづらかった。監督は、
映画にストーリーを求めようとするのではなく、ただ映像に身を任せて感性で持ってこの映画を感じ取って欲しい、というような事を語っている。なるほど確かに自分は最近、ストーリー性があり、主張がはっきりしている映画ばかり観ていた気がする。誰と誰がこういう関係にあるかだとか、なぜあんな行動を取るのかといった事ばかりに目がとらわれていたように思える。要するにこの映画は、見方を誤ってしまったのだ。頭で思索するのではなく、もっと映像の美しさに身を委ねるべきだった。
でも、大まかなテーマは
”喪失と再生”なのかなと思った。岸部一徳が亡くなった娘の形見を、紙灯籠のクジラに吊るすシーンでそう思った。プログラムを見ると、物語に出てくる様々な小道具(埋もれ木やエレファントバード等)は、どれもその”喪失と再生”の意味がこめられた隠喩だったのかな。そういう数々の隠喩が映画の中に散りばめられていて、最後の祭りのシーンでそれが一つとなって昇華する。だから、ラスト、赤い馬とクジラが空へと舞い上がったとき、得体の知れない感動が沸き起こったのかな。映画が訴える主張を、ひょっとしたら無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。
あと監督はプログラムで、
想像性を豊かにして、不可変的な”かたいもの”を可変的な”やわらかいもの”へと変えていこう、と主張している。つまり、停滞感が滞り、もう良くはならない思われているだろうこの社会や世の中は、その見方や想像性、行動によって、いくらでもやわらくし変化を遂げさせることが出来るという事だ。人は目の前に広がる現実を、それがゆるぎない事実であると思い込みがちだ。しかし、それは単に目に映っている物を”見ている”だけであって、”見よう”としているわけではない。考え方を変え、様々な角度から事物を”見よう”とすれば、きっと今までになかった新しい発見が得られるに違いない。
小谷美紗子の歌に
「この社会は本当にもうどうにもならないのでしょうか」という歌詞がある。自分は、大きく言えば、今ある社会に対する不満に対して、何もできずに、何もしないでいる。もう何をしても変わり様がないんじゃないか、という停滞感もある。それでも小栗監督の主張するように、
”見よう”とする不断の努力をし続け、かたいものを少しでもやわらかく、いや溶かしてしまうくらいの勢いを持つべきなのだろうか。
目に見えた社会や世の中の矛盾や悪しき仕組みに対して、自分はどう対処すればいいのだろう。今の自分は、そういった”かたいもの”をやわらかいもの”にしようとしているわけではなく、ただその”かたいもの”に対して抵抗しているだけだ。反発心を抱いているだけだ。それだけではきっと何も変わらない。お金やモノ、規律や教育、法といった現実に当たり前の様に存在する全ての事象に対して、疑問を投げかけ抵抗するしかないのだろうか。
これから、ひょっとしたらどんどんもうこれ以上見たくはない残酷なものが見えてくるかもしれない。そんな時、爆発してパンクしてしまったらどうしよう?
ただ、自分は自分のすべきことに忠実に生きていきたい。そうなったら、大切なもの、例えばさるやもっと具体的に言えば、秋田に住んでいる家族を切り捨ててしまうかもしれない。映画「歩く、人」にもあったけど、自分のやりたいことに忠実になっていれば、それだけ自分に責任を持ち、払わなければいけない犠牲も出てくると思う。
かなり話はそれてしまったが、この高尚な映画は何故か渋谷のど真ん中でやっている。監督曰く、
娯楽や派手なアクションにまみれた映画の中にも、こういった特殊なものが存在することを分かって欲しいという願いから、上映しているそうだ。
伝われ、想い。
伝われ、生きる固体から発する電波。
伝われ、そして溶かしてしまえ!!
- 2005/07/12(火) 02:40:45|
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バットマンシリーズ、実に8年ぶりとなる最新作。監督は「メメント」、「フォロウィング」などのイギリスの新鋭クリストファー・ノーラン。
バットマン待望の新作をレイトショーで見てきたのだが、観客は10人いるかいないかで、「宇宙戦争」や「スターウォーズ」の影に明らかに隠れているなーと思った。でも、できはかなり良く、自分は今までのシリーズの中では最高傑作だと思った。公開時期をずらすべきだと思うんだけど…。なんか、もったいない。
予告を見たときから、今までとは180度違う作風だったので本当にこれがあのバットマンなのか、と仰天してしまった。実は自分はバットマンシリーズは全て映画館の劇場で観ている。それくらい、バットマンという映画は思い入れが深い。まず、1作目の「バットマン」を観たときは確か幼稚園生のときで、映画は字幕だったので隣にいる父親に”今あの黒い人なんて言ったの?”などといちいち聞いていたので、親父にしてみればかなりうざい息子だっただろう。あまりにわけがわからなかったので、途中で抜け出し映画館の中を無駄に一人でぶらついていたことを記憶している。
ちなみに「バットマン」「バットマンリターンズ」は、「ビックフィッシュ」などのヒット作を連発している変人ティム・バートンだ。基本的にこの2作はアクション映画というより、独特の世界観を持った人間ドラマであるようにも思える。そんなに派手なアクションはないし。しかも、どちらも主役のブルース・ウェインの影がうすく、悪役のドラマが主軸となっている。1作目が大物ジャック・ニコルソン。2作目がダニー・デビートとミシェル・ファイファー。個人的にはリターンズが一番すきなのだが、あまりにも暗く、悪役に精神的に加担しすぎているため評論家からは酷評されているらしい。次いで3、4作目の「バットマンフォーエバー」「バットマン&ロビン ミスターフリーズの逆襲」。もう、この2作は完全に駄作。前2作の独特の暗い陰影を持った世界観をぶち壊し、派手な脚色を持った単純な娯楽ハリウッド映画に姿を変えてしまったのだ。ただ、相変わらず悪役はゴージャスで3作目がジム・キャリーとトミーリー・ジョーンズ、4作目がシュワちゃんだ。もう、この2作は観なくていいと思う。3作目のビデオのパッケージなんてあまりに派手すぎて引いてしまった。バットマンがしばらく製作されなかったのも、4作目が大コケしたのが原因としてあると思うし。シュワちゃんがかわいそうだ。あんな中身のない悪役を演じるなんて、けっこう度胸あるな。
てことで、話は長くなってしまったが今回のビギンズ。もう、作風というかそのアクションシーンの作り方も今までとは違いかなり金をかけているなーという印象を持った。言うなれば、「スパイダーマン」に対抗しているなあと思った。うん、明らかに。最後のモノレールのシーンなんか、本当にそうだし、悩めるヒーローという主人公の心の葛藤にも主軸を置いているところなんかも似通っている。しかも、この2つの映画は単純な勧善懲悪の図式では成り立っていない。悪役にも犯罪を犯すそれなりの理由が描かれる。今まで自分が観てきたハリウッドヒーローものは、単純な善対悪の図式で、有名な映画に「ダイ・ハード」なんてのがあるけど、悪役に同情の念を抱かせる隙などこの映画は与えてくれない。これは、冷戦という時代背景も関連しているように思えるし。資本主義=善、共産主義=悪と単純に割り切って悪に対する言及をおこたっていた結果なのだろう。冷戦が終わり、時代が経て単純な2項対立ではわりきれなくなった時代に即して、ハリウッドも単純な勧善懲悪ものでは観客の心はつかめないと考えたのだろう。そこで、現れたのが「スパイダーマン」だ。ここでは、今まで観たことのない悩めるヒーローが描かれる。ヒーローが自分がヒーローであることに悩む、その葛藤が描かれていた。
そして、バットマンビギンズも主人公ブルース・ウェインの心に潜む恐怖に打ち勝つ葛藤が盛り込まれている。なぜ、彼がバットマンになったのか、今まで明かされなかったその宿命が遂に明らかになっていく。将来を約束された御曹司がバットマンに成り代わっていく過程を、かなり説得力を持って描いていた。その脇を大物俳優が固めているのも見応えがあった。同じ画面にマイケル・ケインとモーガン・フリーマンが登場したときは思わずびっくり。あと「シンドラーのリスト」のリーアム・ニーソンが敵役で、ゲイリー・オールドマンが珍しく善人な刑事役で出演している。
もう、バットマンはやはり超かっこいい。バットマンは決して犯罪者を殺すようなことはしない。もう二度と犯罪を犯させないために、自分という恐怖をすりこませるだけである。自分という”正義”を、ゴッサムシティにおいて遂行していくのだ。
ちなみにラストは、バットマンがゲイリー・オールドマン扮するゴードン警部補から、あの1作目の敵ジョーカーの犯罪取締りをお願いされて映画は幕を閉じる。ビギンズ→バットマンパート1へ。みたあと興奮して、遂ビデオ屋で「バットマン」を借りてきたしまった。家でビギンズの続編を観ているような。そんな感じ。
- 2005/06/30(木) 11:17:06|
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