逃源郷

世界は闇なのか

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失われた青春・其の五

  5月31日(木)、雨、PM6:15
 月・火・水と何故か書けなかった。テスト終わって、ヤルきないのと、ねむいのと、朝補習行けないのと、すごいいろんなマイナスなことが多かった気がする。勉(強)もしてないし。テレビばっか見てるわけでもないし。やっぱ、テストが終わったのが大きい。ビデオ借りたものの、見る気もしない。学校もふつうすぎて、毎日のリアリズムなニヒリズムを追い求めてるせいか、夢もアクション的なものばかり見る。どれもスリル。殺人とか追われるとか。たぶん、メリハリついてないせいだ。毎日、ふつうすぎて。何もないからなー。せめて、犬かえばかなりメリット大きくなるとおもうんだけど。
 でも、学校とかでも、どっかで順位気にして、見てくれとか評価気にしてしまう。見返せた。やっと見返せたんだけど、何かが違う。周りの目が変わっても、自分が変わってないから。でも、どうしても、謙虚に、心がガードしてしまうし、それを少しでもときはなって、今日みたいな朝のことすると、ものすごいへこんで、目立たないほうが…なんて思ってしまう。どうしましょ。勉(強)する前に、いろいろ決着つけたいんだけど。どうして、こうなってしまったのか考えると、やっぱり疑問。
 アトピーも治らんし、頭もかゆくて、最近歯もいたくて、なんかうんこもでなくて、体も最悪な一週間だった。ここんとこの記憶がない。
 でも、日記書かなくて気づいたんだけど、これ書かないとどうも自分が確認できないので、今のこの高校生活の時期だけは書きつづけようと思う。



 話は現在に戻って、下にアップした写真の説明を。これは、今月の初めにサークルの人たち+サークルと縁がある障害者の夫婦とその介護学生たちと行って来た江ノ島で撮った写真のうちの一つです。じつは、ちょうど一年前に、自分はやはり独りでこの江ノ島へ日帰り旅行をしてきたのです。ちょうどGW中でした。そして、やはりそこでたくさん写真を撮ってきました。そこで思ったのは、やっぱり旅行は独りで行ってもおもしろくないってこと。きのうのブログにも同じようなこと書きましたが。ところで、今年の江ノ島旅行のとき、自分は飲まなければいけない薬を飲み忘れてしまって、しかもその前の日は吉祥寺に住んでいるサークルの卒業した先輩の家に泊まり、思うように睡眠をとることができなかったことも含めて、旅行は無事に過ごせるだろうかと、不安でした。それでも、なんとか楽しくやり過ごせたし、サークルの一年生との交流も深まったように思えます。高校三年のとき、まさか自分が大勢の人と小旅行しにいくなんて、考えも及ばなかったのに…。
 ちなみに今日も寝過ごして、夕方に起床してしまった。いつになったら朝方に戻れるのだろう。まじでちゃんと授業に出ないと、まずいのです。あー、ダメ人間、ダメ人間。


kumori.jpg

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  1. 2005/05/31(火) 23:25:49|
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京都旅行からはや1年

 ちょうど1年前の今日、自分は一人で京都へ2泊3日の旅行をしに行きました。大学2年のときでした。その頃は、今よりもっとひどい生活をしていました。バイトもしていなかったし、起きる時間といえば夕方5時頃で、その後部室へ行きだらだらしていたような気がしますって、あんま今とたいして変わってない(…)。いや、でも去年は生活が荒んでいただけでなく、精神的にも荒んでいた様な気がします。人に会うのを、多少怖がっていたような。今でこそ、ほぼ毎日誰かと会って、一緒に夕飯を食べたり、おしゃべりしたりしてますが、去年はそういうことを避けていました。そういう、ありきたりの日常から逃避するために、京都旅行を決起したのです。
 いや、そんな自分から逃げ出したかったのかもしれません。そんな自分を変えたかったのかもしれません。でも、旅行をしても何も変わりませんでした。結局、場所が変わっても、自分自身の弱さからは逃げ出せなかったのです。
 旅行は一人で行っても、何の思い出にも残りません。ただ、銀閣寺に行っただの、南禅寺に行って寺が綺麗だったという、京都に行ったという事実しか記憶に残りません。独りで生きるのって、退屈なことかもって、旅行中思いました。そのせいか、無駄に旅行中サークルの人にメールしたのを記憶しています。
 今は、独り旅行をしたいなんて思っていません。しても、意味がないと思います、今の時点では。それよりも、授業に出て、このブログを更新して、映画をもっとたくさん観なければなりません。あれから、自分の中でいろんなことが、精神的な部分で、変化が起こったような気がします。変わっていなかったら、また旅行したいって、今頃準備なんかしていたでしょう。
 そんなことで、旅行日を記念してそのときに撮ってきた写真をアップします。


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  1. 2005/05/30(月) 23:55:49|
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思いの電波よ!

今日、先日に引き続き秋田から立ち寄っている母親と、八王子にいる母親の弟さんに会いに行った。このおじさんに会うのは、沖縄(ちなみに自分の母さんは沖縄出身なんです)に住んでいるおばあちゃん、つまりうちの母のお母さんの古希の祝いのために沖縄へ帰省したとき以来だから、実に15年ぶりになるのだ。たしか、自分が幼稚園の年長の冬休みのときで、映画「ゴジラ対ビオランテ」をシムラ家(母の旧姓)一族と観に行った記憶がある。
 そんなことはさておき、実はこのおじさん、ちょっとした障害をもっているのだ。いや、正確には障害ではなく、ゆがんだ顔、つまり奇形した顔をしているのだ。なんでも、幼少のときに東京の病院で受けた耳の手術が失敗したことで、方耳があごのあたりまでたれさがり、さらにその耳の穴はふさがっていて、音が聞こえないらしい。そのせいか、顔面全体、特に口の辺りがななめにゆがんでいて、両目の形もいびつになっている。いわゆる、エレファントマンなのだ。脳や体機能には以上がないらしく、障害者としては認定されていないようである。
 自分は幼少の頃から、おじさんの身の上話を何度か母さんから聞かされていた。おじさんは、5人兄弟の末っ子で長姉の母さんにかわいがられていたらしい。”顔面はゆがんで、見た目は怖いけど、本当に心の優しい子なの”
 実際に会ったおじさんは、母さんの言うとおり、とても穏やかで、それでいてユーモアを持っているやさしい人だった。
 おじさんは長年勤めた仕事を、会社が倒産したためにリストラにあっている。その後、仕事を探したが年齢とあとその外見も反映してか、なかなかいい仕事は見つからず、結局今は清掃員として働き、ぎりぎりの生活を送っているらしい。昼飯は会社からただで支給されるわけではないので、毎日自炊し、そして仕事場までの交通費もバス代をうかすために片道1時間かかる道のりを歩いて通っているらしい。つまり、おじさんはいわゆる”社会の底辺”で生きている人なのである。そのかっこうと容姿は、とてもとはいえないほどかれていて、シャツについているシミはそれを物語っていた。
 おじさんは、生涯で1度も結婚もしていないし、子供もいない。母曰く、”俺は結婚しても子供ができても、結局死ぬときは独りだから、自分は今のままでいい”と。
 おじさんは、たぶん最大の孤独と生きる苦しみを知っているんだろうな。
 おじさんは、帰り際最後まで自分たちを見送っていた。それを見た母さんは、分からないようにこっそり泣いていた。自分も何故だか分からないけど、トイレでこっそり泣いた。なぜか、おじさんのことを考えると涙が出てきた。きっと、母さんも同じなんだろう。
 帰りの八王子駅では飲み会帰りなのだろうか、酔っ払った学生らしき若い人たちやサラリーマンが浮かれてはしゃいでいた。自分は、その群れのなかを母さんとそしておじさんと歩いて、何故か胸が苦しくなった。そして帰りの電車の中で、母さんはずっとおじさんの話をしていた。今度米をおくってあげようとか、いろいろと。
 

 日本は、不平等な社会だと思う。幸せ者が得をしている。前、NHKの「どうする!?ニッポン」という討論番組で、人生の成功者がフリーターで無職でいる人たちに対して、”君たちが成功せず、夢がかなわないのは、努力が足りないからで、会社のせいでも周りのせいでもなく、自分の責任なのだ”と。

 それは、ぜったいに違うって思った。この世の中には、自分ひとりの力で生きることのできない人たち、生きる選択肢が限られている人たちがどれほどいるのか。なぜ、そういう人たちに対して目を向けず、なぜ苦しみを理解しようとしないのだろうか。自分は、先のコメントをした人物を嫌悪する。そういう人間がちょっとずつ増えていけばいくほど、肩身のせまい思いをする人たちがもっと苦しむ。扶助のない世界。自助の世界。

 自分は、幸せものだ。恵まれている、いや明らかに。この、幸せで安定しきっている状態にもかかわらず、自分は何もしていない。いや、何もしようとしていない。
 おじさんに、自分が今飲んでいる薬を、あげたかった。薬を本当に飲むべきなのは、おじさんだと思った。

 なんか、母さんが早く風呂入れってせかすのでもうここでやめようと思う。ほんとはもっとかきたいことがいっぱいあったはずで、それを電車の中で考えたんだけどな。もっと、まとめてきれいに書きたかった。頼むから、思いが届いて欲しい。この、固体から発する、電波。


teihen.jpg

  1. 2005/05/28(土) 01:48:07|
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偽善者の綺麗言

今日、秋田から立ち寄っている母親と東京ディズニーシーへ行った。まあ、例え相手が母親だとしてもなんとか適当にやり過ごそうと思い、一緒に行くことにした。
ただそもそも、自分は高校の3年間、家族とほとんど口を聞いていなかった。夕飯も自分ひとりで部屋で別々に食べていた。そんなこともあって、というかその高校のときの名残が未だに残っているせいか、いまいち母親といまだに普通に会話ができない。いわゆる、当たり障りのない世間話を。自分は言葉をほとんど発することなく、母親の質問に答えるだけだ。もうちょっと大人にならないとなーって思う。でも、まだまだ時間がかかりそうだ。
ともかく、ディズニーシーは楽しかった。平日でこの時期なのでめちゃくちゃすいていたし。ほとんど並ばずに乗れた。母さんと親子2人の写真を通りすがりの人に撮りまくってもらった。その写真を見たら、自分は笑っていない。いや、なぜか笑えないんだな、これが。母さんは笑っているんだけど。何年かして、もっと大人になったら、きっと笑ってるんだろうな。そう、願いたい。
あと、帰りのおみやげ買ってるときにふと思ったんだけど、あーこのディズニーシーって、なんか資本主義の象徴のようなところだなーって。このシーを築きあげるために、何百何千人、いやそれ以上か、というほどの労働者の労力がかかっているんだということ。その労働者の血と汗の上に、自分たちは立っていて、そしてそんなことを意識することなく楽しさを享受している。でも、考えてみれば自分たちも一応、自分で働いたお金で(自分は今未収入なので、親のすねをかじってシーに入場したわけですが…)入場し、そのお金を使って遊んでいるわけだから、フィフティーフィフティーといえばそうなんだけど。
福岡で単身赴任している父親に”今ディズニーシーにいる”ってメールしたら、”いいもんだね、君たちは”て皮肉っぽい返信がきたからなんか申し訳なくなって。前、父さんの赴任先に遊びに行ったときも、そのあまりの質素な生活ぶりに申し訳なさがわいて、がんばって自分も千葉に帰ったら節約しよう!って決心したわけだが、なぜか高い服買うわけでもなし、高い腕時計買うわけでもないのに、7万の1ヶ月の仕送りをいつも使い果たしてしまっている。資本主義にまみれているのは、この自分ですね。うん、汚染されている。申し子だ。

それともう一つ、普段からこのブログで扶助がどうとかぬかしている自分ですが、今日舞浜駅前でやっていた新潟地震の被災者への募金を、自分はついにその箱にお金を入れることはなかった。さらには、コンビににある募金箱にも自分はお金を入れたことはない。もっと言えば、自分はボランティアという行為が苦手だ。別に嫌いというわけではないのだが、何故かその行為に対して気が引けてしまう。でも、自助が成立する世の中なんていやだ。さっきTVで障害者自立支援法についてやっていたけど、自分ひとりではどうすることもできない人たちが世の中にはたくさんいるんだ。

所詮、きれいごとなのかな。

てことで、今日のディズニーシーの最後のパレードで打ち上げられていた、正真正銘に綺麗な花火の写真をアップします。携帯の画素数が32とあまりに低いため、白黒に写っていますが、あしからず。ほんとはもっと、きれいだったんだから!


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  1. 2005/05/27(金) 00:59:47|
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ただの、固体

今日は、JR西日本福知山線の脱線事故からちょうど1ヶ月経つそうだ。その事故のニュースは、ちょうど1ヶ月前の夕方頃、サークルの新歓コンパを行っていた飯屋のテレビで目の当たりにした。
そして今日の朝のとくだねでは、事故現場を目撃した、近くの工場で働いていた人のインタビューが流れていた。

今だに、自責の念にかられているという。
何故自分はあの時、事故にあった人たちを救うことができなかったのか。
”がんばれ”くらいの声をかけることしかできなかった。

無力さを痛感した。

口に出して言うのは、簡単だ。
所詮、机上の空論。

自分がもし、その現場にいたら、何ができただろうか。
いや、きっと何もできない。
いや、何もしない。

ただの、固体。


今日は、というか最近はいよいよ夜型の生活から朝型の生活に切り替わっている時期で、1日中、死ぬほど眠い。もう本当に。普段起きていなかった朝から昼にかけて起きていると、体全体が眠くなってしまう。そして、この暖かな陽気。今日の3コマ目の授業は、授業中であるにもかかわらず、暖かくてそして全身の眠気からついマジ寝してしまった。すごく気持ちがよかった。
あー、頭が痛い。真夜中も、よく寝付けない。早く、人間復帰しよう。もう、夏だしね。


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  1. 2005/05/26(木) 00:10:46|
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エレニの旅

 98年度カンヌパルムドールを受賞した「永遠と一日」のギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロス監督の6年ぶりの最新作。
 休日にサークルの友人たちと銀座の映画館で見たのだが、思いのほか混んでいてビックリした。かなりマイナーな映画なのに。やはり”通”には知られている作品なのかもしれない。しかも客の年齢層、かなり高かったように思えた。いわゆる玄人受けする映画なのだろう。館内には、アンゲロプロス作品のこれまでのポスターや、監督自身の映画にまつわるインタビュービデオが流れていて、弱冠興奮した。これぞ映画館!って感じ。それにしても売店で売っていたアンゲロプロスDVD全集は買った人いるのかな。なんか図書館とかに置いてそうなDVDだった。
 そして作品はというと、もうのっけから5個くらい長がつくくらいの長回しで映画の幕は開ける。どうやら自分が観た「永遠と一日」は、彼の作品の中でも異色なようで、つまりびびるくらいの長回しはさほど多くない。なので、オープニングの映像にはさすがに参った。これぞアンゲロプロス流。被写体の群れが、画面の奥からゆっくりと画面手前に近づいてきて、その動きをカメラはやはりゆっくりと見守る。カットが割れることなく。その映像は見る側の人間に、映画の人物と時を共有しているかのような錯覚を感じさせてくれる。人物の人生を一瞬でも感じさせてくれる。そんな長まわしの映像が次々に現れては消えていく。そこに、はかなさも感じた。画面の中を通り過ぎては消えていく、長回しの映像に一瞬だけ登場する劇中の人物たち。彼らのその後は一体…?光が待っているのかそれとも闇なのか?何故か不安になってしまう。カメラは彼らを置き去りにして、別の被写体を中心に映しながら、ゆっくりとまた動いていくのだ。その孤独な後姿を、自分はもう追うことはできないのだ。そう、この映画は、全てが孤独で包まれている。劇中の人物はほとんどといっていいほど薄暗い色の服を着ていて、そしてほとんどセリフをしゃべらない。最近観た「さよならさよならハリウッド」とは打って変わって、必要最低限のセリフしかしゃべっていないようだ。エレニなんか主人公のはずなのに、その声をほとんど発することはない。それなのに、画面からは人物の心情や諸状がひしひしと伝わってくる。アンゲロプロスの腕のすごさを痛感してしまった。
 また、主人公のエレニは故郷を追われた難民という立場だ。さらに劇中では、”ニューオデッサ村”や”白布の丘”といった、行き場をなくした難民たちが住む場所も登場する。軍事政権が台頭する情勢の中で、人々は抑圧に苦しんでいたのだろうか。人々は黒い傘をさし、そしてエレニの父親の葬式では皆木の枝にくくった黒い旗を手にしている。河沿いにおびただしい数の黒い旗が風に揺れる。それは抑圧されて行き場を失くしている難民たちの、苦悩の現われなのだろうか。そして、白布の丘の沿岸には、これまたおびただしい数の白くて美しい布(スーツ?)が、風に揺れて干されている。白い布が風に揺れてはためくと、遠くにはエーゲ海かと思しき海がちらちらと垣間見える。果たしてその白い布は、抑圧された難民の”自由”への渇望なのか?最後、子をなくし夫を亡くしたエレニは、河のほとりで亡骸となった息子のそばで、この映画の中で初めて、激しい叫び声を発し、映画はそのエレニの叫び声をもってして幕を閉じる。

”名前はエレニです。
看守さん。私は難民です。
いつどこへ行っても難民です。
3歳のとき河辺で泣いていました。
水がありません。
石鹸がありません。
子供に書く手紙がありません。”


劇中でのエレニの寝言だ。この言葉に、難民の苦しみの全てがこめられているようで仕方がない。帰る家がない状態とは、今の自分には想像し難い。例えば地震で家が火事で焼けても、保護施設を自治体がおそらく用意してくれるだろうし。そんなことよりもまず、実家が存在するし。そういう物質的な意味での”家”ではなくて、精神が安らぐ場所としての”家”がない状態の人を難民と呼ぶべきなのかな。戸籍にも規定されない、透明な存在。そもそも存在するってどういうことだろう。動く体を持っていること?愛する家族がいること?安らぎを持っていること?なんだかよく分からん。けれども果たして、エレニはこの世の中に”存在”したといえるのだろうか?
 最後に、この映画における音楽について。軍事政権によって抑圧されていたエレニ一家の生活を唯一救ったのが、音楽という存在だった。白布の丘にある”音楽のたまり場”には、どこからともなく楽器を持った人たちがぞろぞろと集まってきて、合図も掛け声もなしに演奏が始まる。音楽がそこにあるのだ。人の心のわだかまりを溶かし、そして凍りついた人の心を溶かすもの。それが音楽。音楽の力を考えさせられる。楽器一つと、それを動かすことのできる体さえあれば、そこに音楽が存在するのだ。場所の如何は問わない。例え廃れた工場の中でも音楽は始まる。人々は踊る。その音楽に合わせて。映画はスクリーンがあって、ある程度の室内の暗さと、そして映写機がなければ映画は始まらない。音楽は万国共通の文化なのかもしれない。
 それにしても、この映画は3時間近くあったようだが、あまりその長さは気にならなかった。それもきっと、一つ一つの画がとてつもなく綺麗に仕上がっていた(特に河で行った葬式のシーンが印象に残った)からかもしれない。とにかく自分はこういう詩的な映画が大好きだ。言葉で語らず、画で見せるという映画。あと、映画観てる時はやっぱり居心地がいい。「バッドエデュケーション」、「海を飛ぶ夢」と当たりが続いているし、ヨーロッパで名をはせている巨匠と呼ばれている監督の映画(クストリッツァやマイク・リー)が次々と公開されるので、どんどん視野広げていきたいと思う。


20050525093328.jpg

  1. 2005/05/25(水) 08:56:58|
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扶助の世界

扶助の世界を、成立させたい。

自分がもつ、余りある力をわけてあげられるような世の中がいい。
人が苦しんだとき、その苦しみを少しでも和らげてあげよう。

みんな、同じ方向を見つめないで欲しい。
みんな、自分の世界にこだわりすぎている。

ふと、横を見ると、ほらそこに。

超個人主義なんて、くそくらえ!

君は幸せに恵まれているじゃあないか。
その幸せ、少しおすそわけ。


今日、昼間は晴れていたのに夕方頃から雨が降り出した。夜、自宅へ帰ると、昼間干していた布団が、雨にぬれないように丁寧に新聞紙に包まれていた。隣に住んでいる大家さんのおかげだった。お礼ついでに、大家さん宅に寄り、自治会費900円を払いにいった。ちょっと、緊張した。玄関には、いつもひもでつながれている飼い犬が、今日に限っていなかった。散歩に行ってたのかな。家の中からは、なつかしい家庭のにおいがした。そういえば、国民年金は、学生特例で全額免除できるが、卒業後に学生時代分の年金を追納できるらしい。区役所に行って、免除の手続きをしに行かなきゃなあ。
ということで、明日は秋田から母親が千葉にやってくる。そのために、部屋をめっちゃきれいにした。普段はそうじをしない、台所やお風呂まで。一緒にディズニーシーに行く予定だ。あまり、ふてぶてしくしないように心がけよう。そういえば、母の日には何もしなかったな。


それにしても、音楽には色々な形があるのですね。音楽の形が時代と共に変化するように、世界の形態もちょっとずつ変わっていってほしい。


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  1. 2005/05/25(水) 00:50:45|
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ペットの猫、その名も”さる”

 1ヶ月近く更新をしていなかった、ペットの猫さるのコンテンツを書き足そうと思います。それでは、前回の続きから。
 自分が大学1年のときに、サークル会館で出会ったさる。そこにはさるを含め親子猫3匹が棲息していたのだが、餌をあげ続けていくうちに次第にその猫たちはなつくようになった。外に猫たちがいるときに、自分が近くを通りすぎるとすぐさま近くにかけよってきたり、部室までひょこひょこついてくるようになったり(今では寝床が部室になるくらい、というか部員同然になるくらい部室に居ついている)、自転車で帰ろうとすると道路をずっと追いかけてきたり、もう飼い主になった気分でいられるぐらい猫を見守っていた。
 そして事件は起こった。その年の10月の終わり、周りが大学祭の準備であわただしくなっている頃、自分はいつものごとく授業をさぼって(…)部室に向かって、猫にでも会って暇をつぶそうとした。するとやはり、いつものごとくサークル会館脇の原っぱで猫たち3匹が日向ぼっこをしていた。立ち止まり猫のほうを振り返ると、猫たちは自分に気がつき餌をもらえると思ったのだろうか、原っぱから道路を横切って自分の方に駆け寄ってきた。まずは、親猫の通称”ミケ”から。次に雄猫、つまりさるの兄妹の通称”クマ”が。そして、最後にさるが道路を横切ろうとしたとき、なんとそこに運転席に中年のおばさんが座った白の軽自動車が(今でもはっきり覚えているぞ!)、突然道路を左折してきてゆっくりと、そうかなりゆっくりと道路を走っていたが、道路のちょうど真ん中にいたさるを、後輪のタイヤでひいてしまったのだ。自分は、そのとき頭の中が真っ白になってしまった。一瞬なにが起こったのか分からず、呆然としてしまった。ものすごい音がした。”ゴトン”という、鈍い音(その音も今でもはっきり覚えている)が。車は通り過ぎ、さるは下半身だけをひかれたのか、後足をひきずりながら前足だけで、サークル会館の中に隠れるように入ってしまった。自分は、もう助からないだろうと思った。あんなむごいひかれかたをしたのだから。横にいた大学生らしき人も、”うわー”と叫んでいた。それぐらい、むごかった。
 それでも、動いていたしまだ分からないと思い、急いでダンボールを拾いに行き、そしてサークル会館の中へ入り、さるを探した。いくら探しても、どこにもいない。猫は死ぬとき、その姿を人目につかないように隠し、こっそり死んでいくという。さるもそうなのか…。すると、入り口近くの木材置き場から、異様ともいえる”ニャーオ”という叫びともいえるような猫の鳴き声がしたのを耳にした。いそいで、そこに行くと木材置き場の上に親のミケが座っていた。いや、今のはミケの泣き声ではない。耳を澄ますと、下からやはり”ミャーオ”という泣き声が聞こえる。下に立ててあった木材を横に引くと、そこにさるがいた。そこに隠れていたのだ。寂しそうに、こっそり身を隠すようにいたさるを見ると、どうやら血は出ていないようだった。さるを拾い上げ、ダンボールの中に入れようとすると、後ろ足を引きずりながらもとっさにサークル会館の中に逃げられてしまった。追いかけると、今度は部室の前に乱雑と立てられているたて看板の奥のほうに隠れてしまった。かなり奥で狭い、手も届かない薄暗いところだ。急いで病院に連れて行かないと、終には死んでしまうかもしれない。たまたま部室にいた同じ1年生の女性部員Sさんに手伝ってもらい、まずは何枚もの立て看板を取り除き、それでも暗くてどこにいるのかさえ分からなかったので、撮影で使うライトを彼女につけてもらい自分は看板を取り除き、やっとさるをみつけた。ライトの光を当てると、まだ生きているようで、自分は手を伸ばしそしてようやくさるを捕まえて、ダンボールに入れることができた。
 ダンボールの中では、ずっとさるが泣き続ける。急いで連れて行かなくては…。しかし、病院の場所が分からない!パニクッテいた自分の頭の中に、まず先に浮かんだのは大学近辺の地理に詳しい同じサークルのOB、Oさんだ。急いで携帯に電話をして、一番近くの動物病院の場所を教えてもらう。自転車のかごの上にダンボールを乗せて、落とさないように大学北門近くの病院へ…。
  1. 2005/05/24(火) 02:12:12|
  2. さる(メス)について|
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テンプレート変更

 ブログを作成してからはや1ヶ月が経ちました。そろそろこの暗黒のブログにも飽きてきたので、テンプレートを変更しました。テンプレートタイトルは、その名も”life"。命とか人生とかそんな感じ?スケールのでかさを狙ってみました。


ちなみに下の写真は、先週の金曜にぶらり自転車で行ってきた千葉ポートタワーの、むなしくそびえたつタワー本体です。晴れてたはずなのに、ちょっと曇り空模様に見えるのが残念。人口浜辺には、赤子を連れた家族や仲のよさそうな老人たちがあてもなくたむろしていました。平和そのものでした。世界は同じ時間軸を同時に一緒に生きているのに、なぜかくもこう平和である土地とそうでない土地に世界は分割されるのでしょう。海の上にはヨットに乗った人たちが、波に揺られていました。と、タワーのお土産やで買ったミントアイスを頬張りながら、平日の余暇を満喫してその場を後にしました。


tiba.jpg

  1. 2005/05/24(火) 01:14:18|
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戦争のはじめかた

*この感想は、今年の1月の自筆の日記からの抜粋なのであしからず。
 2001年の9・11テロが原因で、全米公開が5度も延期されることになったいわくつきの映画。
 新年初の映画。新年初にふさわしく、よくできていた映画だった。今の自分の知的レベルとそれ相応のレベルの反戦映画でもあるように思えた。内容的にはやはり自衛隊と戦争、そして人間悪とは何かと考えさせられる映画だった。自分が自衛隊に対して持つイメージは、まじめで厳粛でものすごくかたいものだ。そこには必ず”悪”という黒きものの気配は感じない。しかしのっけからこの映画の主人公は、裏で商売をして金を稼ぎ、さらには麻薬までやり、自衛隊の中では一人の兵隊の死すら簡単にもみ消されてしまう。もうここで十分自衛隊員批判をしていて、こんなものかと思っていたら、そこに更なる悪バリー大尉、そしてリー曹長が出てきて最後には人間同士の殺し合いが始まってしまうのだ。
 上手いと思った点は、3者がいて、そのうち誰が一番の悪かを描いていないところ。その3者には3者それぞれの人間的弱さがあり、その悪の部分は周囲の環境が左右しているんじゃあないか、という作者の考えがうかがえた。主人公のあとに、それをさらに上回る悪が出てきて、さらにもっと上の悪が…と、その前の段階の悪をちっぽけなものと見せる腕もすごいなと思った。観終わったあとには、最初の悪、麻薬を吸う行為なんか別にかまわないじゃないかと思わせてしまう作り。
 小さい悪をさらに大きな悪で消滅させるという行為。これはイラク戦争(テロ集団に対してアメリカがイラクへの報復として攻撃した例)や、仲正昌樹氏の本に書いていた戦争論と通じるものがある。こうして考えていくと、ブッシュ大統領の戦争行為がますます許せなくなってくるが、それはともかく、人間の悪とは所詮程度の差なんてなくて、必然性を帯びているのではないかと思う。普遍的正義を考えると、やはり戦争の場における人殺しは明らかに悪なわけで。それが、戦場では何故許されるのかを深く追求すべきかもしれない。
 戦争という行為の元では、人殺しも含め、何故ずさんな行為の何もかもが許されてしまうのか。リー曹長の主人公に対する”お前以上に悪いことを戦場でやってきた”というセリフが、それを深く示している。今日の靖国参拝にしても、みな平和ボケしすぎている。おそらく昔は入り口前に、もっと多くの右派系の警備員がいたと思う。どこもかしこも日本国旗で。家族、子供、若いカップル。そういう靖国問題、戦争に関する意識がうすい人たち、特に幼い子供に芽生えさせるのが映画の役目だと思うんだけど。特にアニメ、宮崎監督アニメなんかよく考えてみるとメッセージたくさん盛り込んでいる。「千と千尋?」なんかは、親がいなくなった子供の自立する話だ。要は人間働けってことなんだろうけど。でもそれには、周りの同僚やよき上司の援助(映画では釜爺か)がある反面、悪徳社長(湯婆婆か)がいたりで大変だけど、なんとかやっていけっという。「もののけ姫」も自然を支配した人間が、結局最後自然に滅ぼされそうになる。だからアニメも、「ほたるの墓」なんてのがあるけど、老人への応援もいいけど、反戦色の濃い映画、監督自身の経験を深く反映させた映画を、宮崎監督だけでなく、今一線で活躍している作り手にも作って欲しい。それが、クリエーターの役目でもあると思う。せっかく才能に恵まれたんだから。機会もあるわけだし。この「戦争のはじめかた」も、ある種その力を持っているのだと思う。


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  1. 2005/05/20(金) 03:20:26|
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失われた青春・其の四

  5月18日(金)、晴れ、PM11:55
 今日は少しやり方間違えたかも。やりすぎた。能率悪かった。能率ね!ねむいし。
 で、少し思った。だけども、大阪?って。自分は都会向きか、田舎向きかと。明らかに後者だからね。間違いなく。でも、そこには、可能性とか少ないかもしんないけど、人間として心のおもむくままに生きれるかも、自然とともに映画で。哀愁の田舎の映が見たら、ぐぐっとくるのが何よりの証拠。で、そこで思いついたんが石巻。自分の原点。ここに、何か覚醒?させるスイッチがひそんでたりして。正直行ってみたいのはあるけど、大学がね…。でも、やっぱり自分の中で大阪って、少し抵抗ある。メディア発達してても、心が満たされないということも。しかし、そんなこと考える前に、まず自分がなにやりたいかを見つけるのが先でしょう。何よりも。今、それはまったくと言っていいほど分からん。これだって!グーでにぎりしめるものは、今んとこない。つかみそこねてるのは多くあるんだけど。だからそれ探すために、ひとまず勉強あずけた方が。というより、やっぱ、こんなん違う!この1か月一応やってきたけど。目標ないのに、がんばってるのって、自分にとってプラスになるのか、マイナスになるのか。目標見つけてからやったほうが、効率もいいし、何よりそれに向けてがんばれる土台ができる。橋づくりといっしょだ。


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  1. 2005/05/19(木) 01:16:32|
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髪結いの亭主

 「列車に乗った男」「橋の上の娘」のフランスの奇才パトリス・ルコント作品。尚、この感想は去年の9月の自筆の日記からの抜粋なのであしからず。
 ルコント2つ目。正直観たあとに、色々考えた後に、あ、ひょっとして名作なのかも、と思った。恋愛の真理を発見したというか。確かに、人を好きになりすぎると理性が吹き飛ぶというのは分かる気がする。いや、大人とは社会的な規則、ルール、正しい倫理にしたがって他者と折り合いをつけながら、日常を会社で生きる存在だと思う。そこではある程度の仮面をつけたり、自分を偽ることは当たり前なわけで。皆、お互いに気をもみながら、作り笑いなんかも多々あり、苦しみを味わいつつ生きる存在だと思う。ただ好きになりすぎた相手にとっては、そのようなルールは要らなくなる。つまりなんでもあり。感情のおもむくままに。まるで社会経験を身にまとっていない赤子のように、本能で向かっていく。それが、恋愛というものなんじゃないか。
 こういうこと考えると、最後の妻の自殺は納得できる。男の行動も理解できる。抑えられないんだ、衝動を。そしてSEXもその一連の行動のうちの一つだと思うし。なるほど、やはり大人(=社会経験を身にまとった存在、ルールに縛られている、自分はこの存在を尊敬する)には、恋愛というものは必須なのかもしれない。いや、バランスが取れないでしょ。恋愛は若いうち、とは何のこと。平凡な日常に一筋の光を差込、人間を輝かせるもの、それが恋愛なのかもしれない。
 ところでこの映画は、それ以外に画面の色調が美しい。ただ、今回は脚本がなあ…。不条理なんだよね。ただ、その不条理さも前述のこと考えつつ見れば丸め込まれるわけで。ただ、この映画をきっかけに、自分の中で新しい考え方が生まれたのは確か。観て良かったと思う。


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  1. 2005/05/18(水) 01:27:15|
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映画を観ること

 自分にとって映画とは何だろうって考える。それは、ある意味もう生活の一部であり、無くてはならない物になっている。
 東京へ映画を観に行き、映画を観るためだけに渋谷や新宿に行くことすらある。行きの電車の中では決まって新聞を読み、着いたら即映画館へ。コンビニで買ったジュースとチョコレート(アルフォートの安いやつやアーモンドチョコレート)を手に、本編までの予告が上映している間にそれを頬張る。席は最近は決まって前から3列目辺りを。巨大なスクリーンが目の前に広がり、映画が始まる。これから自分にこの映画はどんな興奮と感動を味わせてくれるのかと、期待に胸膨らむ。
 映画の世界に浸る。心地よい時間。世界を自分だけが独占しているようだ。その、映画の世界を。
 観終わったら、プログラムを買い、時にはサントラやポスターも。映画館の中に張られている映評を読み、他の映画のパンフレットを手にしてその場を去る。帰りの電車の中で、プログラムを読みながら観た映画に関して自分なりに思考をめぐらしてみる。
 こうやって、自分の世界は広がる。自分のもつ世界は、ぜったいに自分ひとりの力だけでは広がることは無い。例えば人によって、その手段は音楽だったり、本だったり、演劇だったりする。自分のそれは、断然映画だ。映画を観て、愛を考え、戦争を考え、社会を考える。映画によって、自分が支えられている。自分は自分ひとりだけから構成されているわけではない。それは自分が出会った人であったり、出会った友人であったり、そして映画であったり、つまり自分以外の全ての世界によって、自分という人間は支えられているのである。
 自分はこれからも映画を観続けるだろう。幼少の頃観た「ゴースト・ニューヨークの幻」以来、まさか自分がここまで映画に埋没するとは思わなかった。
 世界を知る手がかり、世界を考える手がかり。それが自分にとっての映画という存在なのだ。


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  1. 2005/05/17(火) 01:23:14|
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海を飛ぶ夢

 この映画は去年観た「モンスター」同様、法と社会規範について深く考えさせられる映画。自分なりに尊厳死と法について、文献の力を借りてそれなりに勉強してみようという気になった。
 とりあえず、作品としてその内容のでき不出来は別として、映画として尊厳死という問題に体当たりで取り組んだところで評価されたのだと思う。監督はどうやら尊厳死にどちらかといえば賛同の立場をとっているようなので、この映画を通して、スペインの法規制を少しでも緩めよう、もしくは一般国民に尊厳死に対する意識を浸透させようとしたのだと思う。映画の力を考えさせられる。法の形を変えるほどの力は持たないと思うが、きっかけ作りには十分貢献していると感じた。
 物語は、病床に動けずにいる主人公を中心に、その家族と尊厳死の社会的認可を手助けする弁護士の女性と、主人公に心を動かされた独り身で子供持ちの主婦たちの葛藤が描かれている。あくまで主人公のみの視点からではなく、周りの人物にも焦点を当てているところがよかった。人物それぞれの、主人公ラモンの死への決意に対する葛藤も丁寧に描かれていた。特に自分はその中でも、寡黙で思いを口にして出そうとしないラモンの父親に感動した。年をとっていて自分も思うように動けず、ラモンの生活をサポートする機会作りにしか自分の居場所を確保できない父親。もし、自分が寝たきりの状態になったらどうするのか?ただでさえラモンの看病で生活が苦しいのに…。本当に死を望んでいたのは、実はこの父親だったのでは…?でも父親は決して、それを口に出そうとはしない。おそらく、家族を、そしてラモン=息子のことを愛していたからだろう。そう、この主人公の家族は死を望む主人公に対して愛をもってして看病を続ける。自由を剥奪されているのは、この家族であるようにも思える。生活の安定を捨ててまでラモンのために働く兄、ラモンの死を内心では反対しながらも、それを本人の意思に即して判断をゆだね、ラモンを息子同然に看病する義姉、文字の学習などラモンを父親のように慕う甥。自分たちも苦しみながらも、愛をもって主人公を看取っている。
 こう考えると、体の動かない主人公は、家族にも恵まれ、知能も高く詩作の才能もあり、訪れる友人や女性が数多くいるのに死を望むなんて、自分のことしか考えていない傲慢な人間だと尊厳死に異を唱えてしまいそうだが、自分はまったくそうは思わない。主人公は決して傲慢な人間ではない。なぜなら、主人公もまた、周りの人間に対して愛をもってして接していたからである。きっと他の誰よりも周りの家族の苦しみを理解し、常に笑顔で、そしてユーモアと優しさをもってして、周りの人たちと接していたのである。他人の苦しみを理解している人間を、傲慢だといえるだろうか。そんな寛容ならモンだからこそ、訪れる女性は多かったし、弁護士の女性や主婦のロサも彼を愛したのである。しかし、ラモンはそんな彼女たちの愛にこたえることはできない。”たとえば君はそこにいる
わずか1メートル その距離は常人にはわずかなものだ
でもぼくにとってその距離は無限だ
君に触れようと手を伸ばしたくても 永遠に近づけない
かなわぬ旅路 はかない幻 見果てぬ夢
だから死を選ぶ”

劇中でのラモンのせりふだ。体の動かないラモンは”愛する”という行為ができない。頭の中で行う空想の中でしか、愛する女性と”愛する”という行為ができないのだ。ラモンは事故前の若いとき、世界中を旅し放浪していたという。そんな、体を動かし世界を、そして海を飛び回ることで生きる実感を得ていたらモンにとって、体が動かず28年間もベッドで寝たきりの状態でいることは、地獄の苦しみ以外の何物でもなかっただろう。車椅子に乗ることを嫌がったのも、自分の足で世界を歩くことに誇りを持っていたからである。
 生きる実感の喪失した状態。詩を作っても、家族の愛情に囲まれても音楽を聴いても、彼は生きる実感を得ることはできなかったのである。個人の自由な生きる権利が剥奪された状態。そんなラモンにとって、死を選択し、永遠に夢の中で海を飛ぶ夢を見るということが、自由な人間でいるための唯一の手段だったのだろう。しかし、その手段である”尊厳死”が法では許されてはいない。法によって、個人の生きる権利が阻害されているのである。
 同じことが劇中で登場した、ラモンと同じ障害を持つカトリックの神父にもいえる。神父はラモンに同じ障害者の立場から、そしてカトリックの教義に従って、”自殺は罪であり、生を全うするべきだ”と訴える。しかし長い年月の間に確立された、個人の自由な生きる権利が、十分とは言えないが保障された社会において、宗教の教義を個人に対して押し付けるのは強制的であり、人権の阻害に当たるのではないか。政教分離の原則があるように、社会規範は”宗教の教義”にあるのではなく、”法”によって敷かれているのである。ラモンが神父に対して激しく罵倒したのもうなずける。
 このように考えると自分は尊厳死に賛同しているように思えるが、決してそうではない。ラモンの家族の立場にたって考えてみる。家族は愛する人間を失うのである。その悲しみと苦しみを考えると、やはり主人公には生きていて欲しいと思うのが常であり、尊厳死には反対である。しかし、そう思うことだけがラモンへの愛情であり、扶助ではないと思う。本当の扶助とは、相手の立場に立って相手にとって自分ができる手助けとは何かを考えることだと思う。そして、ラモンの願う尊厳死を手助けすることが、本当のラモンに対する思いやりであり、愛情であるのではないかと思う。
 世の中にはさもざまな扶助を必要とする弱者が存在する(ホームレスや障害者、在日外国人の方々など)。援助できる側の人間が、その弱者の立場に立ってその弱者が必要とする手助けとは何かを考え、それを”法”として整備し、そしてそんな社会こそ真の公的扶助の整った社会であるといえるのではないか。だからこそ、死を望むがそれを実行することのできない人間に対し、援助する側はそれを殺人として肯定しない”安楽死”として合法化する必要があるのだ。
 ちなみに自分は、現実の変化に合わせて法を変えていくことに賛同する。現実には、法でまかなえる範囲外の出来事が起こるからである。アリストテレスの言葉を借りて言うならば、”現実の中にイデアが存在する”わけで、現実の中にはさまざまな予測できない可能性が存在しているのである。
 尊厳死には、命とは何か?だとかその生き死にの問題も重要だが、それよりもまず本当に個人の自由な生きる権利を保障するにはどうしたらよいかという問題がはらんでいる。そのためには、法によって整備された公的扶助の浸透した社会を成立させる必要があると自分は考える。
 最後にこの感想は、とても抽象的で具体性を書いていると思われる方々、まったくその通りです。自分はこの分野においてまだ浅はかな知識しかなく、まだまだ勉強不足であることは否めません。ただ自分は少なくとも、弱者と法と公的扶助に関して興味があり、今の段階でそれについて、この映画を軸に考えをめぐらしていたことを書いたつもりです。実はまだ書き足りない部分があるので、そのうち追記としてアップしようと思います。
 またまた最後に、この映画の途中に出てくるラモンの空想の中での空中飛行シーンは素晴らしかった。スクリーンで観て、実際に空を飛んでいるような気になった。自分もよく空を飛んだり、ビルとビルの間を跳ね回る夢を見る。自分もラモンのように、一生夢の中にい続けられたら…、なんて願うこともあるが、それはまた別の機会にということで。


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  1. 2005/05/14(土) 23:55:09|
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fc2ブログランキング映画部門で20位!!

今日の時点で、fc2ブログにおける約470個ある映画ブログの中で、なんと自分のこの逃源郷が20位にランクしました!!これもすべて、いつもご覧いただいている皆様、TBしていただいている皆様、あと通りすがりの読者等、自分の逃源郷をのぞきにきてくれた皆々様のおかげであります。どうもありがとうございます!
これからも、映画の感想に限らず、多種多様にわたる充実したコンテンツを設けていきたいと思っていますので、あらゆることに興味をかたむけ、日々感性を研ぎ澄ませていくよう励みたいと思います。
どうぞこれからもよろしくお願いします!!


ちなみに下の画像は、去年の8月に、岩井俊二監督の「ifもしも…打ち上げ花火、下から見るか横から見るか」の撮影で実際に使われた、千葉県銚子市飯岡町にあるロケ地に訪れた際の写真です。この建物は主人公の自宅という設定で、訪れたときには家の方が撮影当時の出演者の写真やサイン等を見せてくれるばかりか、カルピスまでごちそうしてくれました。なんとも、楽しい小旅行でした。しまだ釣具店の皆さん、その節はお世話になりました。(多分ここ見てないと思うけど、お礼を申しておきます)

「ifもしも…?」の公式ファンサイトのリンクをはっておきます。興味がある方はご覧ください。
→http://www.asahi-net.or.jp/~ri8m-njr/hanabi/


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  1. 2005/05/14(土) 21:09:42|
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橋の上の娘

 素晴らしい!「ワンダフルライフ」に続くヒット!とにかく脚本が良くできていると思う。人間同士の結びつき、特に男女の接近の仕方を、体の触れ合い以外で描いているところがすごい!これは「ロストイントランスレーション」も同じ、いやむしろ設定は似ている。中年オッサンと若い娘との恋とも友情ともつかぬ物語。いや「ロストイン?」より数倍上だろう。
 目的のためにお互いを必要とする関係。最後にはいたたまれない幸福感と、二人に拍手を送りたくなる。一緒にいることを続ける、ただそれだけでいいみたい。人間の神秘を感じさせる、そんな映画。特に主人公の娘のキャラがいい。いい男と会ったら即ヤル。でも実はダニエル・オーティユを必要とするところなんか、鳥肌モンなわけで。そこらへんの設定作りが上手いなと思った。ダニエル・オーティユもいいキャラしてる。クールで強くたくましそうに見えるけど、実は寂しがり屋で誰よりもパートナーを求めてる。もろいんだな、人間って。
 そんなこんなで、娯楽性もあり楽しませてくれる。ギャンブルやナイフ投げの緊張感溢れるシーンなど。小細工も最大限利用された(ジッポや腕時計)、近年まれに見る至上の人間ドラマなのではないでしょうか。正直、まいるね。ヨーロピアンの発想には。よくもまあ、あんな発想思いつくこと。うますぎる!


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  1. 2005/05/14(土) 00:30:08|
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こんな風にして終わるもの

 今日、バイトをクビになった。約10ヶ月続けたバイトをだ。原因は自分でも分かっているし、いずれこうなるであろうことはだいだい予想していた。それにしても、その終わりはあまりにも突然で、そしてあっけなかった。あーそうか、物事ってこんな風にして終わるものなんだーって思った。死や地球の終わりもそうなのかもしれない。突然に、瞬く間に。何が起こっているのかすら分からない、そんな状況。今までの歴史、築いてきたものは一体なんだったんだろう。
 いや、しかしこのバイト先では色々とお世話になった。去年の暮れ、夜型の生活から抜け出せずにバイトを休みがちになっていたときに、社長直々にバイト中呼び出され、お説教食らうかと思っていたら、近くの定食屋で牛丼とビールをおごってもらい、一言”一人暮らしで大変だろうから、ちゃんと食べておけ”と言われた。この社長、仕事とか遅刻に関してはかなりいい加減でというか寛容なひとであって、社長の貫禄をまるで見せない、面倒見のいい人であった。他にも、教務のYさん(女性)には自分が飼っている猫や髪の毛について色々と会うたびに突っ込まれたりされた。この人、何故かいつもハイテンションで明るく、そして何故か仕事中”あたしなんでこんな仕事してるんだろう?”ってぼやいたりもしていた。他にも、教務のMさん(男性)とは職場でたまたまアルバイトが自分ひとりだった時に、二人で仕事を一切せずに、三時間ずっと映画の話で盛り上がったこともあった。この人、かなり映画に詳しく、しかもミニシアター大好きで”こんなに映画の話したのは何年かぶりだ!”って言われた。それくらい、映画の話に飢えていたらしい。どうやら、周りに映画好きがいなかったようで。それにしても、この人の映画の知識はすごかったな。
 そんなわけで、世話になったバイト先をくびになったわけだが、いかにその職場との相性がよくて、職場の人と仲良くなったからといって、会社にとって必要なのは”使える人間”であって”信頼関係を結べる人間”ではないという事だ。契約上の関係なんていうのは、所詮こんなものなんだろう。アルバイターにとって必要なのはその人間性云々ではなく、いかに仕事をこなせて、会社側が要求する時間帯で働いてくれるかにかかっているのだろう。ある意味、個人の人間性が剥奪されているような気はするが、ここでいちいち会社と個人についてうんちくたれるのは面倒くさいのでやめておこう。
 そんなこんなで、今日は雨だった。バイトの時間が急に空いてしまったので、パルコ行って「シガテラ」最新刊かって、スタバでそれ読みながらクリームのっかてるカフェほおばりつつ、それでもまだ時間が余っていたので、前から観たかった「海を飛ぶ夢」を観賞した。感想は後ほど。そして外はやっぱり雨で、帰り道の赤信号を眺めながら、明日地球が急に滅びるか、もしくは自分の死が宣告されたら、多分自分は今まで通り何もあせることなく、普段どおりに時を過ごし、眠ってる内に死んでいくんだろうなー、なんてこと考えて家路に着いた。


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  1. 2005/05/13(金) 00:40:10|
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失われた青春・其の参

  5月11日(金)、くもり、雨 AM12:25
 きのうは、ついTVをたくさん見てしまい、勉強もあんましなかったし。5月入って、平日の勉強かなりへってる気する。すごい、ねてるし。ちょっと、中だるみ的になってる。休日にばっかたよってないでね!
 で、きのうはロンブー見た後、顔毛そって、ねた。そして、今日は目覚め最悪。曇り空の下出発。人少なかった。募金集まんない。それにしても最近自習の時間とか、空いてる時間、ヤル気がしない。何故だろう。少し、決意うすくなってるかも。4月の勢いはどうした。マジで本気でいかんと。そして、体育を見事にさぼった。やっぱり言葉で伝えるの苦手だから、行動でオレはこういう人間なんだぞと示さないと。ラスト1年になって、何たるしゅうたい。言葉伝えるの苦手だと分かった。行動で示すのみ。そして、急いで行く。かなり、タイヤ心配だったけど。けっこう迷った。まず、チャリをどうするか。歯医者はちがってた。しかし、何とか成功。あんなに、きれいにいくとは。それに気づいてくれるかが…。で、帰る。すごい、へんな時間をすごしてしまった。帰り道も迷った。すごい、長かったし。どこだったの?1時間ぐらいかかってしまった。攻略の必要あり。そして、5時前に到着。新聞よんだりして、5:30頃から8時までねる。これがダメなの!!明日がんばる。


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  1. 2005/05/11(水) 23:14:56|
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愛する人よ、共に生きる喜び

 自分が自分以外の他者、世の中、弱者にしてあげられることって何だろうって思う。
 自分があなたにしてあげられることってありますか?
 あなたが自分にして欲しいことはありますか?
 あなたが自分を必要としたときに、自分がすぐに飛んでいけないのが悲しい。
 いや、飛んでいけないんじゃない。何をしたらいいのかが分からない。分からない?ただ、何も考えていないだけなんじゃないか?
 あなたが胸を痛めたとき、自分も胸を痛めるよう励みたい。
 あなたが苦しんでいるとき、あなたの苦しみを少しでもやわらげたい。
 果たして自分にそれができるのだろうか?
 いつも、自分のことばかり考えている。
 こんな自分をお許しください。
 自分を犠牲にして、あなたにしてあげられることを見つけたい。
 あなたの生きる苦しみ。それを自分が理解できないのが悲しい。
 ただの傍観者でいる、こんな自分をお許しください。
 愛する人よ、共に生きる喜びを分かち合いたい。


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  1. 2005/05/11(水) 03:13:56|
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モンスター

 03年度アカデミー賞主演女優賞他、世界の映画祭での主演女優賞を総なめにした作品。ちなみにこの感想は、去年の10月の自筆の日記から抜粋したものですのであしからず。
 やられてしまった。最近自分が深く考えつめていたことと、重なったことも一つの要因ではあるが。やられてしまった。映画館で観たあと、泣いてしまった。
 この世の中には、”普通”とはいえない環境に生まれ、社会の辺境で生きざるを得ない、それしか選択をとることができない人間がどれほどいるのか。闇の世界で生きることしかできない人間が一体どれほどいるのか。最近観た「インディス・ワールド」もしかり。難民キャンプでしか生活することのできない人たち。たどり着いた希望であるとみなされていた目的地ででさえも、さげずまされ、安い賃金で社会の底辺、片隅で生きなければならない運命。しかしそんな闇の世界にも、希望や光、安らぎは存在する。それがモンスターでのリーにとっては、彼女との愛だったのだろう。映画として客観的に観ると、その二人の描き方はやはり浅い。途中リーの彼女への愛、献身から、リー自身の苦しい生い立ちと、人を殺さざるを得ない状況にいること、”何故人を殺してはいけないのか”という永久不変の倫理への問いかけへとぶれる。そこがまだ映画として、いや脚本として不完全だと思うし。カメラワークもあれ?何この違和感?と思わせる部分が多々あったことは否定できない。
 とりあえず前半はリーに苛立ちを感じていた。ただ、教養が無いだけの堕落した人間なんだと。会社で面接するくだりで特にそう感じた。デスクワークがどうとか。それは普通にまじめに社会という枠組みの中で懸命に生きている人間たちへの挑戦状とも読み取れる。おそらくリーがいかに”社会”という場所からはみ出た、遠い辺境の場所で生きているかということをアピールしたかったのだろうが。めんせつだと、それがちょっと弱い気がした。
 ”普通に生きたい”というメッセージ。世の中何故かくもこう、二項対立で仕組みができているのだろうか。善と悪、正しさと悪さ、罪と罰、出来不出来、金持ちと貧者。そして社会でまっとうに生きようとした彼女と、そんな社会に適合できずに、其の社会の法によって裁かれ死んでいったリー。社会に適合できずに、社会に反発するものには死しかないのか。そういう人間を排除しようとする社会。ただ、その普通で活きなければならない社会を責める事は出来ないと思う。そこにも苦しみはあると思うから。幸せとか愛は、場所や状況いかんにかかわらず、必ずどこにでも存在すると思う。そこに人間がいる限り。苦しみも悲しみも喜びも、人間そのものが感じることの出来るものだと思うから。

 
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  1. 2005/05/10(火) 01:24:51|
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生き恥

昨日の朝日新聞の書評欄に、岡本太郎の
「人に会いたくなくなるのは自分自身に会いたくないからだ」
って書いてあった。
これ、すごいよく分かる。
自分がどういう人間かだとか、自分自身の弱さって他人と接しないと把握できない気がする。周りの人と自分を相対化して初めて、自分の弱さを知ることができると思う。
そして、それを知って愕然とする。
ああ、自分って実はこんなにも愚かで、浅はかで、弱い人間だったんだと。そして、自己嫌悪に陥り、もうこんな人間は他人と会う資格なんか無いと思い込み、人と次第に会わなくなる。
一人でいるのは、ものすごい楽だ。でも、ものすごい退屈なことだと思う。自分の弱さに気づけないから。一人でいて、自分と見つめ合ってるのはそれは実は気のせいなんだ。一人でいても、何も分からない。
自分は、日々変化し続けたい。いや、精神的に。でも自分の弱さと向き合うのに、恐れている。現実で生きるのを恐れている。いつまでも、眠って、夢の中にい続けたいと思う。
生き恥、さらしてる。


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  1. 2005/05/09(月) 23:58:44|
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ブログを公開

 これまでずっと続いていた陽気が一転、今日は急に肌寒くなり、5月の雨までも降り出した。これだから、お天気は。気まぐれで。まあ、自分も気まぐれな墜天使だけど。晴れたり、曇ったり。上がったり、墜ちたり。右に、左に。上に、下に。こんな雨空の日の夜は、マックを食べるに限る。なんたって、あの高級感がかもし出されていて今まで手を出すことのできなかったマックグランセットが、530円でお買い上げできるのだから。いやはや、マックの打ち出した低価格の値段戦略。500円均一やら、百円均一やら。マックセットを混ぜ食いするのがいい。ハンバーガーとポテトORチキンマックナゲットとジュース(自分は決まってファンタグレープで)を交互に口に混ぜて、一気に胃に流し込むのがいい。あのポテトのやわらかさよ。高校生の時、土曜の昼は決まってマックを買って食べていたが、親に頼らず一人でマックを買うことに何故か大人になった気がしてならなかったっけ…。
 そんなこんなで、マックとつるかめで買ったカフェシューをほおばりつつ、日本版シャルウィダンス?を観た。ノンストップで。いや、この日本映画、邦画の中でもかなり好きな部類で、小6の頃だったっけ、そのとき見て以来テレビでやるごとに何回も観ているのだが、どうにも自分で映画を作って以来、映画の内容とかおもしろさよりもピントの合い具合とか、役者が画面に映っていてもしゃべっていない時どんな仕草をしているかとかが気になってしょうがない。なまじっか内容が手に取るように把握できているから、余計に気になって。それにしても、前半のテンポ良過ぎ。あんなふうに自分の映画も上手い具合にカットしていれば、もっとすっきりしただろうに。
 てことで、少し離れたところに住んでいる何人かの知人にはこのブログを既に公開していたが(本当に見てる?仙台と秋田の方々)、身近な知人にも公開することにした。どうにも、書き込みしにくいとは思いますが、何でもいいのでどうぞよろしく。


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  1. 2005/05/07(土) 02:35:00|
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プライベートライアン

 98年度アカデミー賞監督賞他、五部門を制したスティーブン・スピルバーグの戦争ドラマ。
 泣いた。それは、スピルバーグのヒューマニズム的ドラマ作りの上手さと演出力のせいなのか。フルメタルジャケットと比べて、確かにテーマは不明確で浅はか。ただ、忠誠と信義、戦場におけるそれがドラマの中心になっている気はした。トム・ハンクスはあくまで最後まで上層部の命令に従い、忠誠を尽くす。たとえ部下が何人と犠牲になっても、”国のため”と割り切り任務を遂行しようとする。ジレンマが発生する。自分の性で部下が死ぬ。責任。一人で隠れて泣いていたトム・ハンクスに感涙。それと、そんなトム・ハンクスに最後まで尽くす軍曹。仲間との忠誠心から、国へ還ることを拒否したライアン二等兵。最初と最後の、白い十字架が並ぶ墓地のシーンが印象的だった。
 戦争悪に巻き込まれた被害者。戦争当事者も含め、被害者も含め、皆が戦争の被害者だと言うことを知る。国のために死んでいった兵士。国に翻弄されて死んでいった兵士。戦争の悲劇を知る。


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  1. 2005/05/06(金) 02:28:14|
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漫喫から更新

 GW中だというのに、今日は一日中家で寝てた。夜の9時ころまで。そして、こうやって家にいるのも退屈だからって漫喫にいるわけ。いや、今日は早く起きて日比谷でやってる「エレ二の旅」を観に行こうと予定していたんだけど、どうにも起きれなかった。なんか最近、というか四月からまた例によって夜型の生活に切り替わってしまって、午前中に起きたためしがない。どうにも、時間を無駄に使ってしまっているようにも思えるが、かといって特別に急き立てられてやることも無いし…。いや、映画観るとかあるんだけどね。
 あぁ、これがモラトリアムってやつですか。何もしなくても、しないでいても、まあいいやって。時間はたっぷりあるからなんとかなるって。やるべきことねえ…。自分の周りの人の中には、とりあえずちょっとでも自分の興味があることに手をのばして、色々と活動している人がいるけど、自分にはその前に興味があること自体少ないからなあ。うーん、オーストラリアに行ってファームステイするとか、一人旅行するとかやりたいこと無きにしも非ずなんだけど、行動に移せてないなあ…。
 ニートまっしぐらだな、このままじゃあ。去年の自分のテーマは”人に優しくすること、人に思いやりを持つこと”だった。そして、今年の最大のテーマは”自分の道を模索すること”、これに限る。今年入ってもう四ヶ月たつけど、ビジョンが見えてこないなあ。と、なぜか居心地のいい漫喫からの”ぼやき”でした。


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  1. 2005/05/05(木) 23:19:50|
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バッドエデュケーション

 「アールアバウトマイマザー」、「トークトゥハー」のスペインの巨匠ペドロ・アルモドバル最新作。
 ペドロならではの登場人物の錯綜する感情と欲望が入り乱れた濃厚な人間ドラマ。相変わらず脚本が良くできていて、ちりばめられた伏線もサスペンスの醍醐味を味わせてくれる。ただ、この人の映画は「アールアバウト?」「トークトゥ?」とそうだったように、イマイチ胸に響く何かがない。そう、感動しないのだ。音楽も効果的に使われているし、ドラマなのに何かこう人の感情のこと線に触れる一歩手前でやめているかのような、そんな”つかみどころのなさ””自分のものにできそうでできない”作品がペドロ調なのかもしれない。
 作品の内容としては、まずやはり美術。最初の部屋の壁に並んでいる前衛的な絵の数々や柱の派手で明るめな色。こういう細かいところまでに、彼の芸術性を感じる。プールの横に並んだ赤い二つのいすとか。あと、少年時代のサッカーシーン。こういう何気ないシーンでスローを使ったり劇的な音楽を導入したりと、ところどころで域を超えた芸術性を感じさせる場面が多く登場する。やはり天才だな、この人。
 そしてあとは、登場人物における禁断の愛。とかくこの人は少年愛とか同性愛とか、許されない禁断の愛をモチーフにするな。男と女が恋をしてSEXをするという一般的価値観はこの人の映画の中では通用しない。本人ゲイだから、それが映画にもあらわれるんだろうな。オカマもよく登場するし。
 あと、身代わりの愛。「トークトゥ?」でもあったけど、今まで愛していた人が死んで体だけ残って植物状態となったとき、人はその人のことを愛し続けることができるのかという問題。つまり、人はその人の体を愛するのか、精神を愛するのか、それとも両方なのか?ではそのどちらか一方、例えば事故で植物状態となった人間は精神が崩壊したと言えるから、人はそそ体だけを今まで愛した人と同じように愛し続けることができるのか?「トークトゥ?」の主人公は、これをまさにやってのけてしまい、植物状態にいる彼女をレイプし捕まってしまう。この映画でも、牧師はイグナシオの弟を、幼少の頃のイグナシオが成長した姿、つまり代わりの姿と見立てて彼を愛してしまったんじゃないかなーって思った。人は人の何を愛し、そして好きになるんだろう?好きになる、と言う構造自体イマイチよく分からん。体なのか、心なのか。
 それと最後に欲望。イグナシオの弟は自分の欲望のため、つまり役者になって有名になって成功するため、兄をも殺し、そして兄を演じて兄の初恋の相手をだましてSEXをもする。異性愛者なのにだ。でも彼は一時的には成功しても、結局は破滅する末路にあった。人を踏み台にした報いか。結局のところ、人間って皆自己中な存在だと思う。自分を犠牲にして他人のために動ける人間って、世の中にどれくらいいるんだろうって思う。そもそも自己中って何だ。自分さえよければ他人なんてどうでもいいと切り捨てることなのか。相手の苦しみに目を向けないこと?自分より他人。そういう人間に憧れるけど、つい自分が先行してしまう。全ての人間を好きになれたらいい。それとも、他人と関わらなければいいのか…。これはぜったいに違うな。
 とにかく、話はずれてしまったけど、総括すると「アールアバウト?」のマイノリティーな性の価値観と「トークトゥ?」の禁断の愛と欲望が上手く調合したような映画。可もなく不可もなく。
 それにしても、これ観た新宿テアトルタイムズスクエアの映画館はスクリーンでかいし、きれいだった。屋上からの景色もまたよしだった。


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  1. 2005/05/05(木) 02:50:43|
  2. 映画(劇場にて)|
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スイートヒアアフター

97年度カンヌグランプリ賞を受賞した、カナダの女流監督アトム・エゴヤン監督作品。
ファーゴを髣髴とさせる冬の寒々しい雪の空気感。それが、町に住む人間の闇と悲痛を表現するのにうまく機能している。
人々は笑わない。ただ、沈んだ表情をしている。灰色の空と冷たい雪。北国では自殺をする人が多いと言うが、そういうことなのだろう。
共同体主義への警鐘のようにも見える。村には村独自のしきたりがあり、それを守り真実が隠蔽されながらも、人々は表面的に平穏な日々を過ごしている。近親相姦、不倫、うわさ、薬…など。村の人々は周りの闇の部分を知っていながらも、それにきづかないふりをして、平穏であるかのようにみえる日常を生きている。事故の真実を暴こうとする者と隠そうとする者。真実は闇の中。痛みに真剣に向き合った者と、それから目を背けた者。事故の真実が暴かれると同時に、自分たちの真実が暴かれるのを恐れた人間のエゴの物語であるようにも思える。真実と向き合うことを決めた主人公のその後と、真実から目を背けた町の人たちのその後の幸せ=スイートヒアアフター。


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  1. 2005/05/05(木) 00:59:38|
  2. 映画(自宅にて)|
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安定することの恐ろしさ

安定することって恐ろしい。
日々、自分以外の世界=世の中や周りの事象に目をむけ、胸を痛め、あれこれ思索しなければいけないのに、心が鈍感になってしまって何も感じることができなくなってしまう。
心が平和になるって恐ろしい。
他人の痛みに目を向けなければならないのに、その痛みすら感じない。
心が汎庸になっていく。
ただ、流されるだけ。気づいたらそこにいて、ただそこにいるだけ。
ただの固体。
もっと、自分を急き立てなければならないと思う。
心の安定に充足しきっている。

もっと胸がいたくなれ。


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  1. 2005/05/05(木) 00:43:06|
  2. 戯言|
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不確かな存在

不確かな存在になりたい。
ふわふわと宙に浮いている、何を考えているのか分からない、つかみどころのない、そういう存在。
そこにいるのかどうか分からない、透明な存在。
何からも束縛されず、いつもふらふらと歩き回っている。
相手との一定の距離を保ち、決して近づかず、決して遠からず。
相手が近づけば離れ、相手が離れれば近づく、とらえどころのない存在。
そういう人間に、ボクはなりたい。

ここで一つ、宮沢賢治の詩を一節。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ


  1. 2005/05/02(月) 01:26:39|
  2. 戯言|
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