逃源郷

世界は闇なのか

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『アメリカ、家族のいる風景』

『パリ、テキサス』の監督ヴィム・ベンダースと脚本サム・シェパードが20年ぶりにコンビを組んだ最新作。

前作『パリ、テキサス』がとても良かっただけに、あまり期待しないで観ようと思っていたが、案の定蓋を開けてみたら予想通り面白くなかった。

テーマや設定は前回とほぼ同じ。落ちぶれたやさぐれ中年おじさんが、長い間置き去りにしていた家族との関係性を取り戻そうとする話。

まず何より、主人公のおじさんにまったく魅力がない。前回の最大の良さは、無口で不器用なおじさんが最後の最後で心情吐露をして、男の美学を残して家族の元を去って行くといったところにあったのだが、今回はそういう男の美学というか”粋”というものを感じさせてくれない。主人公は最初から最後まで逃げ腰なままで終わってしまっていて、駄目な中にある茶目っ気というものが感じられない。それに、酒と女性に夢中なやさぐれ中年おっさんを演じているという点では、明らかに『ロストイントランスレーション』のビル・マーレイの魅力には劣っている。やはりそういうキャラには、駄目なんだけど仕方なくどこか許せてしまうといった魅力が欲しい。

それと前回の映画の最大の良さは、多くを語らないところにあったのに、今回は逆に多くを語りすぎている。演出も過剰で、そうハリウッド映画のようで仕方がない。
監督はヨーロッパ出身のアメリカ大好き人間のようだ。そのせいか、どうもアメリカ描写が浮ついていて地についていない印象を受けた。広大な砂漠、カウボーイ、ドラッグ、ロック、場末のバー……、どの点をとってもこの前観た『マンダレイ』とは打って変わって、表面的な良い部分しか扱っていない。時折画面に映る、アメリカ国旗が風にはためいている画も、正直あざといなあという印象を受けた。

またこの映画には、主人公とは逆に芯の通ったしっかりとした女性が3人、母・妻・娘と登場する。ある映画評に、”男性は女性に支えてもらわないと生きていけない”と書いていたが、女性って果たしてそんなに都合のいい存在なのだろうか。自分は、男性は身勝手でわがままで甘えん坊、女性は気丈でしっかりしているという、性によってそういった線引きをするのはあまり好きではないし、女性だってわがままを言ったり、他人に甘えたくなるときだってあるはずだ。自分は身体的に男性の形態をしているので、女性の立場にたって物事を考えることが出来ないのが残念だが(いや、自分以外の人間の立場を考えるのに、性別は関係ないのかもしれないが)。

人間(特に男性)は、いずれ母親という母体のもとへ帰って(還って)いくという。自分独りでは何も出来ずどうしようもなくなった時に、最後の助け綱として母親の元へ帰って(還って)いくようなことだけは、できるだけさけたいな、と思った。


20060330000800.jpg


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  1. 2006/03/30(木) 00:05:33|
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発露

この前の短期バイトをして、やっぱり社会人になんかなりたくないって思った。あのサラリーマンの雰囲気というか何というか。他人への配慮に欠けた態度とか身の振舞い方とか。本当に自分のことしか考えていないんだなって思った。自分の欲を叶えることしか考えていないというか。仕事をしてて、何が現場にとって善いことかっていうのは、必ず頭で考えれば分かることだと思う。ただ、上の言われたとおりに動くのは間違っているし、言われたことが間違っているなって思って、それを上に言いにくい現場もぜったいにおかしい。お客にとって、バイト人がどういう動きをしてくれたら良い気持ちになるのかを、しっかり考えなくてはならないんだなと思った。あの最初の仕事は、客の空いている席を覚えておいて、遅れた客にそこを案内するという。
すごく、倫理とか規律というのが失われているんだな、とも思う。”立ち入り禁止”という看板一つにしても、そこが立ち入り禁止になるには必ず理由があるわけで、それを自分が通りたいからという身勝手で超個人主義な自由をはきちがえた理由で通ろうとするのは絶対に間違っている。経緯や場を見て考えれば分かるはずなのに、自分の欲が先に生じて、倫理を無視する。美容室で『サラリーマン金太郎』を読んでいて、10年位前はすごく保守的な既存の倫理、例えば礼儀とかあいさつとか、目上の人間を敬うだとか、そういったものをぶっ壊すとまでは言わないけれど、くそくらえ的な風潮はあったと思うし、実際自分もそういった倫理観の喪失した環境で育ってきたのは間違いないと思う。いじめが起こるのも、人の痛みが分からないという人倫の喪失から起こるものだし、先生に対するいじめとか、学校にゲームや漫画を持ってくるとか。まして”なぜ人を殺してはいけないのか”なんて愚問のなかの愚問の愚問に過ぎない。倫理の消失した中で育ってしまったから、いざ大人になって自立しようとしたときに、その基盤がないから右往左往してしまう。お年寄りとか子供への対応だとか、困っている人を助けるとか。倫理があってこその、人間の自由で主体的な行動が成り立つはずなのに、その基盤がぐらぐら揺らいでいるから、人足りえていない。それが、コミュニケーション不全を引き起こす原因の一つなのかもしれない。
話しはずれたが、大人の中にもそういった倫理観の消失した人がたくさんいるから困る。特にイベントでのお客に多い。それを年下の人間が真似るから、負に負が生じて負の連鎖が起こってしまう。
スーツ姿で街を歩いていると、大多数の中にすがりついているようでとても嫌だった。自分の道は自分で探さなければいけないのに、どこか近道をして楽をしているようで嫌だった。能力も人格もなっていないのに、スーツ姿は人を立派な姿に見せるし、きっと周りもそう思うのだろう。大船に乗った気分でいるのは、きっと楽なことだとは思うのだけれど、どこか居心地が悪い。

haturo.jpg


  1. 2006/03/28(火) 02:32:52|
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『マンダレイ』

20060317004833.jpg



『ダンサーインザダーク』のラース・フォントリアー監督最新作。

前作の『ドックヴィル』同様、極めて政治的な映画。
人間同士の愛情、などといった人間の心の機微を描く部分は一切登場せず、
権力関係だとか、、正義の遂行などという、集団間の力の構図が描かれている。
だから、というわけではないけれど、
観ていて胸くそ悪くなってしまう。
こういう問題は、現実の中だけで十分なもので、映画の中にまで観せられてもたまったもんじゃない。

今回の主人公グレースは、奴隷制度がいまだにはびこる村の人々に対して、民主主義を教え込もうと正義感に燃えている。
そんなグレースの行動を見て、正義を遂行しようとする者は、いついかなる時でも中立的でなければならず、
そして目的を遂行するためには手段を選ばないとする、ある種冷徹な部分がなければいけないのだな、と思った。
また禁欲的で、常に周りにとって善いことは何かを考え、自己利益に走るようなことはしてはならない。
この辺り、グレースは完全なまでに任務を遂行し、後半村にちょっとした平和が訪れようとするが、
そのせいで気が緩んだのか、異性に対する強い性欲が発生し、自己欲と正義心の狭間で揺れ動くグレースの姿は妙にリアリティがあった。
グレースの不完全さが見事に浮き彫りにされていた。
また、お遊戯のように民主主義を教育する場面は、
監督の民主主義に対する皮肉めいた批判が感じられた。


前作同様、村人は愚民ばかりだ。
表面上は”善い人間”を装っているけど、
裏をはがせば、人間悪に満ち満ちているという。
自分の立場が危うくなったら、いかなる権力にもすがりつき、自己保身に走るという愚民。
裏切りは当たり前。
自分の立場さえ保障されれば、それでいいんだ。

村人は、社会が黒人を受け入れる体制が整っていないという理由で、
また自由競争の荒波から逃れるために、
自ら進んで奴隷制度の中に身を置き、与えられた仕事と役割を担いながら生きている。
そこでは個人の自由は保障されていない。
好きな時に飯を食べることも出来なければ、好きな時に映画を観たり、散歩をしたりすることも出来ない。
しかし、衣食住は権力者によって保障され、自分にとって何が必要だとか、いかに生きるべきかについてあれこれ思い悩むことはない。
ただ、権力者の指示によって動いていればそれでいいからだ。

自由という鎖のジレンマは、人間に退廃と空虚感を発生させる。




  1. 2006/03/17(金) 00:45:27|
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『秘密のかけら』

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『スイートヒアアフター』のアトム・エゴヤン監督最新作。

一級品のサスペンス。


あらすじ
1957年、花形エンタテイナーのラニー・モリスとヴィンス・コリンズの二人組は、チャリティのテレソン番組でホストを任されるほど人気の絶頂にあった。ところが、ホテルで起きた変死事件に巻き込まれてコンビの解消を余儀なくされる。事件は迷宮入りするが、15年後、事の真相を明らかにしようと野心に満ちた若きジャーナリスト、カレン・オコナーがラニーとヴィンスに近づく。少女時代のカレンにとって二人は特別な存在だったが…。



真実と虚構と、現実と過去の映像が入りに入り乱れて、独特の世界観を生み出している。

特に、過去の50年代の映像が良い。
光がほんわかしていると言うか、恍惚感があり、とても艶やかだ。

各所に幻想的なシーンが散りばめられている。(女性記者とアリスという不思議な少女との艶めかしいシーンなんか特に)

最後の最後で、真実が明らかにされるところなんて、『スイートヒアアフター』そっくり。

事件の謎を解いていくというより、事件の当事者たちの人間の内面の謎を掘り下げていくという、ちょっと変わったサスペンス。



  1. 2006/03/09(木) 00:18:29|
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『拘束のドローイング9』

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目に驚く芸術美というものを堪能したくなって、渋谷シネマライズまで、最終日に観に行ってきた。

もう、なんというかこれは映画ではないなあ。
動く絵画というか、動く芸術写真ともいうべきか。
セリフはほとんどない。
音楽でいうところのインストのような。

あらすじ
舞台は日本。ある石油精製所で阿波踊りの隊列に先導されたタンクローリーが、伝説の捕鯨船「日新丸」の脇に停まる。タンクの液体は船上にある巨大な鋳型に流し込まれ、船が南極に向けて航行する中、“フィールド・エンブレム”の形を成してゆく。そこへ、遙かかなた別々の地から運ばれた男女ふたりの西洋の客人が辿り着く。身を清め、毛皮の婚礼衣装をまとい、貝の柱が立つ船内の茶室に導かれた男女は、奇妙な器で茶を一服するうちに恋に落ちていく…。

前半の映像は、とても機械的で人間味を感じさせない。
大勢の人間が列になって、阿波踊りをするシーンがあるけど、躍動感というものをまったく感じさせない、ある種の冷たさを感じてしまう。
石油精製所で働く人たちの、動作もしかり。
多分に、人の動きとか配列とか、かなり綿密に計算立てて撮っているのかもしれない。
中盤はかなりたるい。
特にビョークとバーニーがお茶をすすりあうシーンなんて特にそう。
正直、ブラックコーヒー一杯だけでは足りなかった。
自分の隣の隣に座っていた女性のお客が、口をポッカーンと開けて寝ていたのもなんだかすごくうなずける。
ただ、終盤、二人が恋におちて、お互いの体を切り刻むシーンは圧巻。
かなりグロイし、にせものの体だと分かっていながらも、おえっときてしまうシーンの連続。
ちなみに海水を漂う二人の生き血が、精子の形に見えたのはきのせいだろうか。
あと全体として、説明がかなり省かれているので、解釈はいろいろと出来そうな気がする。
鯨と人間は同じ哺乳類なのだから、その境界線はない、だとか。

正直、目に刺激的だったのは最後のシーンだけだったなあ。
あと、ビョークってかなり老けたおばちゃんなのだなあ。
年を重ねているのに、赤とかピンクの派手な服を着ているおばさんって、そういえば街でたまに見かけるなあ。

公式HP→http://www.wisepolicy.com/matthewbarney/

  1. 2006/03/04(土) 01:20:31|
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人非人

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