逃源郷

世界は闇なのか

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さよならをうまく

さよならをするのは、苦手だ。


バイトをやっていると、改めて自分の駄目なところが浮き彫りになって反省の連続だ。
最近調理場を任されているのだが、注文が次から次へと増えてくると、
もう何が何やら分からなくなってしまって、
お湯につけておいたラーメンの存在は忘れるは、
作ろうと思っていたつまみのメニューは作らずにほったらかしにしてしまうやらで、とてもお客が混んでくるとパニくってしまう。

前、調理師の人に、
「自分でやったことは最後までやり通さなきゃだめだぞ」
って言われて、ああそうだよな、確かにって思った。
要は、自分で手をつけたことは責任を持って、最後までやりとおさなければいけない、ということだろう。
そう考えると、自分はいかに色んな仕事を中途半端に途中でそのままにしてきたのかが、なんとなく分かってくる。
任せれた仕事はもちろんのこと、やろうと自分が思った、つまりモチベーションの高さに任せて自分から動いてやろうとした仕事でさえ、
責任を放棄して、途中でそのままにして放っておいてしまったことが多々ある。

自分は、思いつきで後先のことを考えずに行動してしまうことが多い。
仕事中も、与えられた役割に関係なく、目に付いたまだ成されていない仕事を勝手にやってしまうこともある。
そうした時に、この仕事を最後まで完成させるにはどうしたらよいかと、まず考えてから行動に移すのがいいのかもしれない。
形の完成形を頭でまず思い浮かべて、それに至るにはどうしていったらよいかを考えていかなくてはならないのかもしれない。



自分にとって、最大に苦手として、最も頑張ることを強いられるのは、
やはり人と協調して仕事を行うことなのかもしれない。
お客がいる時は、自分の与えられた場所での仕事をこなしていけばいいので、さほど問題ではない。
しかし、平日でお客が少なく、しかも現場の人数が4?5人と多い時は、仕事の忙しさとは別に、大変なことがある。
なんというか、その時の雰囲気を慎重に読みとらなければならないのだ。
お客がいなくても、混んできた時のために下準備をそれぞれがしている時もあれば、
それぞれが会話を楽しもうとしている雰囲気があるときもあれば、
はたまた何もしていなくて手持ちぶさたにぼんやりしている時もある。
そうした時に、ただ自分のしたいことを思いつきでやるのではなく、
この状況に対してどうしていこうかと、一旦頭で考えてから行動しなくてはならないから、仕事の忙しさとは別にとても労を呈するのだ。




「各共同体の善は、各共同体の善でしかない。」




各々の共同体には、そこで成されるべき善がそれぞれ存在している。
しかしその善はその共同体の中でのみの善であって、それが他の共同体に通用するとは限らない。
それらの善に、程度の差はないし、それぞれがそれぞれで善いのだ。
だから、自分の眼前に現れたそれぞれの善に、自分のこの身を追いつかせていく必要があるのかもしれない。



人との関係性を築くにしても、人を好きになることにしても、人と最後に別れる時にしても、
この方が善いという、その善さにまったく近づいていない気がしてならない。
一番の後悔は、あの時もっと善に近づくように頑張ればよかったな、
というそういう後悔だ。
だから、次はもっとさよならをうまく言えるように。



sayonara.jpg


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  1. 2006/05/30(火) 14:54:07|
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現前の様相

常に、何かしらの問題意識を保ち続けなくてはならない。

ある特定の部分で、一定以上、もしくは一定未満、
自分の中で、頑張ることができたというちょっとした満足感を味わうと、
もうそこから問題意識を抱かずに、一歩身を引いてしまうこの癖をなんとかしなくてはいけない。
今やっているバイトにしてもそうで、洗い場を今日は一応自分なりにこなすことはできたので、あとはこの調子でやっていけば大丈夫だろうと、
精神がナアナアになるというか、もうそれ以上新しい問題を見つけて解決していこうという気にならなくなってしまうのだ。
しかも、ここで重要なのは、やることをこなすことが出来たというのは、それはあくまで自分のみの主観からにすぎないことで、
他の人の目からすれば、実はまだまだ問題点はあるのかもしれないということだ。

現状に満足してはいけない。
常に、今この現前で何が問題となっているのかを、考えていかなくてはならない。

何というか、本当にものすごく楽観的なのかもしれない。
本当は、少し先の自分の未来に対して大きな不安と危機感を覚えなくてはならないのに、
その未来に予測出来るであろう不安を取り除くためにすべきことを今まったくしていない。
とりあえず、ちょっと先の未来、明日とか明後日とか、
その範囲で何をしよう、何をしていこうと考えているだけで、
しかも、その選択も自分の長い範囲で考えた未来にとって果たして正しい選択になりえているのかも、全く見当がつかない。
こういうやり方で今までずっとやってきたけれど、果たしてこれでこの先生き長らえることはできるのだろうか。



「自己は、過去の経験的な自己の中からしか見出すことはできないのかもしれない」


もう、自分とは誰かといった問題は、さほど重要でなくなってきているのかもしれない。
自分が誰であるかというのは、過去に行ってきた自分の経験からしか判断することができないのかもしれない。
過去の経験的自己が、他人との関係性の網において、どのような様相をなしていたかを客観視することが、重要なのかもしれない。


アイデンティティ探しの時代は、もう終わりが近づいているのかもしれない。


gennzen.jpg


  1. 2006/05/18(木) 02:54:25|
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自己世界からの脱却

正直、何が正しいことなのかが分からなくなるときがある。

バイトをしていると、その日その日によって、その場の雰囲気が変わるのを感じる。
自分も含めて4?5人でやっているから、その日の場にいるメンバーによるのかもしれない。
はたまた、他の人はいつもと同じ動き方をしているのに、自分だけが普段とは違うな、と感じているだけかもしれない。
どっちかは分からないけれど、やっぱり現場の雰囲気は日によって変わるのを感じる。

仕事のやり方は、おおまかに2パターンに分かれている気がしてならない。
そう、協調型と自立型だ。

1年近く働いているパートのおばちゃんは、協調を重んじる。
協調というか、分担作業と助け合いを重要視している気がする。
まずは、自分に与えられた、洗い場なら洗い場と、そこでの仕事を完璧にこなした上で、手が余ったら他の苦労が多い場所の負担を減らすよう手を貸す。
一緒に働いているのだし、負担を分かち合おうといった考えからくるやり方なのかもしれない。

もう一つは自立型で、
現場の一応の責任者であるアルバイトで入っている人がそれを実践している気がする。
要は、スピードと要領の良さを求めているのだ。
個人作業を重視して、まず自分が出来る限りの仕事を自分で探して実践していく。
自分で見つけた仕事を譲り合って、共同してやっていこうとするものではない。
一人一人がそうやって的確に動いていけば、それだけ全体の利益が上がるといった考えからくるやり方なのかもしれない。

日によって、今日はこういう動きをしようと、それなりに考えて現場に入ることにしている。
今日はお客が少なそうだから、パートの人とのコミュニケーションを重視しようだとか、
または洗い場の仕事だけを徹底的にやろうだとか、
パートの人数が少ないから、分担作業の精神でやっていこうだとか。

仕事をしていて、自分は自立型が向いているのではないだろうかと思うことがよくある。
あまり他人の立場性を考えることなしに、とにかく自分で仕事を見つけて自分ひとりでそれを実践していく。
ただ。
周りの人の仕事の仕方を見ていて、
善いな、と思ってしまうのは、やはり協調分担型なのだ。



自分が善いと思える行動規範が、未だに自分の中で見定まっていない気がする。
やり方や、大きくいえば生きかたでの価値観というのは、本当に多種多様な気がしてならないし、その中でどれが優れているだとか、劣っているだとか、
そういうことも、はっきりと峻別できない気もする。
またその中で、自分にとってどれが善いのかということも、明確に決まりきっていない気がしてならない。
ただ、価値観は人それぞれだ、という考え方は、なんとなく避けた方がいいのではないかと思ってしまう。
それは自分が信ずる価値観が絶対で、他は許容することができないと、
自分以外の価値観と他との間に、明確な線引きを引いているようなものではないか、と思ってしまうのだ。

生き方ややり方に、その善し悪しはない。
それぞれが独立していて、それぞれが直線的に様々な色をなしているのかもしれない。



「相手を主体に自己を考えるのか、自己を主体に自己を考えるのか」



相手にとって、善いと思えるような行動をすることが出来る自分でありたいと、最近よく思う。
相手がどういう人間かを見定めて、
その相手にとって自分がどういったことをすることが出来るのかを、
よく考えていかなくてはならないのだと思う。
関係性を築くというのはそういうことで、
相手に合わせるのだとかということではなく、
まして自分を押し殺すということでもない。
ただ、自分本位で物事を考えることなしに、相手が善いと思えるような言語交換なり、そういう状態を作り出していくことが重要なのかもしれない。



思いやりと配慮は、ともすれば自己欺瞞になりかねない。
常に意識を外に向け、自分本位の世界から脱出しなくてはならない。



jikosekai.jpg


  1. 2006/05/13(土) 02:15:23|
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問題は解決に向かうべきでただ感傷に浸っているのはさけた方がいいのかもしれない

もう、本当に反省につぐ反省だ。

仕事の内容ややり方はだいたい覚えてきてはいるものの、やっぱり満足した動きができない。

平日のスーパー銭湯はすごく空いていて、お客さんもかなり少ない。
しかし、一時的にどっとお客さんがまいこんでくることもある。
そうした時に、一番負担がかかり、労を呈するのが、調理場で動いている人だ。
普段自分は洗い場と受付を担当しているのだが、
洗い場は暇なときに隙をついてやってしまえばいいし、こつを覚えればすぐにでもできる仕事だ。
受付も、注文を確認してすぐそばの調理場に伝えれば、あとはけっこう手が余ったりする。
だから。
空いているときは、いかに調理場で働いている人の負担を少なくするかをものすごく考えなくてはならない。
手助けするのにも、あれやこれやとメニューに必要なものを勝手にだしたり準備したりするだけでは、
逆に調理している人の、邪魔になったりさえもする。

立場性を考えなくてはならない。
相手が調理をしているときに、どういうタイミングでどういった手助けをしてあげれば、相手の負担が軽減されるかを考えなくてはならない。
しかし、こういった立場性というのは、一度品を作って経験してみなければ作っているときに相手にどうしてもらいたいかはなかなか解らないものだ。
自分は一度も調理したことがない。
だから、相手の立場性を想像するしかないのだ。
注文が多くて、あせあせして調理している2人の姿を見て、
自分はどんな手助けができるだろうかと常に考えながら、簡単なスープを作ったり卵を持ってきたりしていると、
今度は、自分の担当していた仕事がおろそかになってしまう。
お客の食べ終わった食器がいつのまにか増えていたり、
受付時に何を注文されたか忘れて混乱したり。

一度、一年近く働いているパートのおばちゃんに、
「あなたはやっていることが、すべて中途半端なのよ。
まずは、自分が与えられた仕事をしっかりこなしなさい。」
って言われた。

的確な要領とスピードさえあれば。
まずは自分の仕事を的確にこなし、そうして相手の負担も和らげることができる。
仕事の的確さもそうだし、コミュニケーションも含め、本当に毎日が勉強の連続だ。


今日、夕方仕事場に行ったら、そのパートのおばさんが泣いていた。
息子さんの話をしていて、泣いていた。
もう一人のパートのおばさんと、
「なんで人生こんな風になってしまったんだろうねえ」
ってあははって、笑いながら泣いていた。

このあばちゃんには、いつも迷惑をかけている。
なのにいつも何かしらの差し入れをよこしてくれる。
アルバイトの身分だからって、なんだかいつもとても申し訳なくなってくる。
「そのお返しは、仕事で返せばいい」
って同じパートの人が言っていたけど、それはおばちゃんの仕事を最終的に奪ってしまうことにはならないだろうか。



今日、大学内の野良猫にえさをやっている人と話したところ、
野良猫がたくさん住みついている大学の床屋裏に、
どうやら猫エイズにかかったらしい野良猫が、そこに最近現れるようになったらしい。
その猫は、他の猫に感染すると危険だから、安楽死させてはどうかと言っていた。
エイズの治療をするのにも、膨大なお金がかかるとも言っていた。
他の猫のために、一匹の猫が人工的に殺されることになる。
悲しいとか、切ないとか言うのは簡単なことだから、
この事実をどうしようかという事実に関して考えなくてはいけないと思った。


wareta.jpg


  1. 2006/05/10(水) 03:33:59|
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数1000倍の欠如

あらゆる部分において、人の数1000倍意識して、努力しなくてはならない。

レストランの厨房バイトをやっていると、
そこでの人の働き方や動き方が、まるでその人の生き方というか人生を反映しているようでいてとても面白い。
洗い場、調理場、受付と3つの部門に分かれていて、
例えば調理場を担当しているのなら、あくまでその部分において完璧な仕事をして、他人がやっている仕事には介入しない、という人もいれば、
そういった役割に関係なく、隙の空いているところを自分で見つけて縦横無尽に動き回る人もいる。
おしゃべり好きの人もいれば、そうでない人もいる。
他人のミスをただ咎める人もいれば、次はこうした方がいいとアドバイスしてくれる人もいる。


「手伝ってあげようか」
という言葉の中には、様々な意味が含まれている。
自分のやる仕事がなくなってしまって、何かやりたいという自分本位の欲求から生まれた言葉。
相手が悪戦苦闘しているのを見て、もし自分は相手だったら今こうしてこういうことを手伝って欲しいと、相手の立場に立った考えから生まれた言葉。
手伝ってあげよう、というのに言葉なんていらない。
手伝って欲しいのなら、相手は必ず言葉に出してそう言ってくる。
ただ言葉に出してお願いするのにも、相手の手が空いている時に言わなくてはならない。

プライドが高く、相手を信頼しようとしない自分は、どうやら他人に物事を頼めない性分らしい。
周りの人が2周りも年上であるという遠慮もあるのだが、どうしても自分一人で何もかもやってしまおうとしている。
でも、自分が気づいた仕事を、それを自分ひとりではどうしても出来なくなってしまったときに、それを人にお願いするのは決して悪いことではないと思う。
なぜなら、もし、共通感覚というものが本当にあるとしたのなら、自分も暇なときに何かやってと仕事をお願いされたら、悪い気持ちにはならないからだ。

一人、とても尊敬に値する50代のパートのおばちゃんがいて、
その人は、自分に任された部分の仕事をまずは徹底してこなす。
そうして自分の手が余ったら、何も言わずに他の人がやっている仕事のところに来て、手を貸してくれる。
しかもその手を貸すというのも、ああ今この時にここをもう一人の自分がいて手伝ってくれたらなあ、
と思ったまさにその時に手を貸してくれるのだ。


あらゆる部分や状況において、どうしたら善いのか、善くなるのかと、常に意識しなくてはならない。
自分は他人任せで、そうして気を緩むとすぐに意識が内側に向いてしまう。
自分が嫌いで仕方がないのに、気が付いたらいつもなぜか自分と戦っている。

何がしたいかではなくて、一体自分には今何が出来るかが重要なのに。


自分たった独りで生きている、という意識はどうしてこの身にしみついているのだろう。
あらゆる状況において、”仕方”や、こうした方が善い状態になる、というその方法が身にしみていない気がする。
人倫と、社会性の大きく欠如している自分は、絶対にまだ社会に出てはならない。
でもどこかで規範への嫌悪は拭い去れない。
それはおそらくこの身体と精神性に問題があるのは間違いないのだが。


自分が善いと思った人間に近づきたい。
その根底にあるのは、間違いなく他人への配慮と思いやりにあふれている人間だ。
そうした人の行為は、自分の中に何か暖かい、すべてを許せるようなそうした気持ちを沸き起こらせてくれる。
自分には欠けているものだから。
自分には決してないものだから。
それを思うと、なぜだか泣けてきて、そうしてそれが自分を少しずつではあるけれど人間に近づけていく。


suusennbai.jpg


  1. 2006/05/07(日) 15:58:24|
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理由は、単純明快だ

ひどく途方に暮れて、自分を保つのが苦しくなる時間が多くなってきている。

前は、独りで買い物をしたり、映画を観たり、音楽を試聴したりすることに、何の違和感も抱かずにむしろそうすることを楽しんでさえいた。
しかし、今は。
そうしていると、なぜだかとても自分を保てなくなってしまう。
苦しくなって、何やら分からぬプレッシャーのようなものが重く心にのしかかって来るのだ。
それはきっとおそらく。
自分の行為が自己完結にのみ終わってしまっているからだ。
苦しくなるのはたぶん、この自己という肉体と能力を持った固体を、
自分以外の世界に対して働きかけることをせず、活かしていないからなのだ。
自転車旅行をしに行った時もそうだった。
すべては自分だけのために行われた行為であって、そうすることの意義というのを見つけることができず、気持ちが善い方向に向かっていかないのだ。
趣味や自己完結にのっとった行為というのは、そういう自分以外の世界に対してこの身を働きかけたあとにやってくる一種の休息のようなもので、それに付随するものなのかもしれない。

バイトはしていて、正直楽しい。
自分が今いかに楽しむかではなくて、この場や状況をいかにして善い方向へ持っていくかを頭で考えて、それを実践している過程にあるこの固体は、
とうてい重苦しい何やら分からぬ抑圧からは解放されている。

しかし。

自分はどこかで、”責任”というものから逃れようとしている。
のめりこめばのめりこむほど、そこには競争というものが生まれ、一番だとか、二番だとか、十番だとか、蔑みだとか、
そういう優劣の嫌な感情が沸き起こる。
絶対的に精神的苦痛をともなった敗者という者が、必ず生み出されてしまうのだ。



高校1年生のとき、とても仲の良かった秋田のおばあちゃんが癌で亡くなった。
小さいころからよく面倒をみてもらっていて、自分もおばあちゃんを尊敬していたし、お盆や正月におばあちゃんに会いに行くのがいつもいつも楽しみで仕方がなかった。
でも。
自分は葬式で、葬式でおばあちゃんの遺骨を処理するとき、泣けなかった。
いや、泣かなかった。

自分のことで、精一杯だった。
自分が誰だとか、自分の身のことで精一杯で、心では分かっていても、泣くことができなかった。
自分さえ良ければ、それで良かった。
今の自分のその精神状態が安定して、そうして次の日にはお笑いビデオを観て何もなかったように楽しく笑っていられればそれで良かった。

今でも、おばあちゃんは夢に出てくる。
なぜ出てくるのかはわからないけれど、よく出てくる。

お見舞いに行ったとき、なんでもっと人間らしい優しい言葉をかけてあげることができなかったのだろう。

自分の身が一番大切なこの罪人は、どうしていまだに息を吸い続けているのだろう。
死にたいとか消えたいとか、その前にどうしてこの劣悪非道な罪人は、生かさせてもらっているのだろう。


独りきりで生きるのには、それなりのリスクがあるし、
そこに何かしらの意義を見出さない限り、この固体はただ息を吸ってうごいているだけで、何の意味もない。
しかし。
自分以外の世界と関わって生きるにしても、そこには何かしらの抑圧が生じてくる。


人を殺すか殺さないかの境界線は、いったいどこにあるのだろう。

今日は一睡もしていないせいか、あるいは永山則夫の本を読んでいたせいか、こういう考えばかりが頭に浮かんでくる。


仕組みは、意外と単純で、要は今を生き切っていないだけなのかもしれない。
問題は、理由は、単純明快だ。


tougen22.jpg


  1. 2006/05/05(金) 16:01:37|
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最大の敵は、自分

打算で計算しながら、生きているようでいる自分がとても嫌になる。
どうやら自分の心は、だいぶ壊れてしまったようだ。
いや、ひょっとしたら生まれたときからずっと壊れたままなのかもしれない。
とにかく、心ではなく、頭で動いて計算して動いている自分がとても嫌だ。
最近は、映画や音楽を聴いても、よほどのことがない限り感動することはない。
あらゆる場にいても、ちょっと離れたところから、状況を客観視してまわりに起こっていることが他人事であるかのように感じることもある。
暖かみのない、無機質なロボットにでもなってしまったかのような、そういう感じだ。

超男性性は、権力か、あるいは異性にその矛先が向かっていくものなのだろうか。
自分の欲望のためなら、他人を蹴落とし、蔑む。
あれが良いとか悪いとか、あれが良いとか駄目だとか、
そういう価値基準でものごとを峻別してしまっている自分もものすごく嫌になる。
男性性は、はたしてその身体に影響されているのだろうか。
強い男性性が自分のなかで現れるとき、とてつもない大きなストレスというか、そういったものがあらわれて、
心臓が圧迫されるような、胃のあたりがきしむような、そういう感覚に襲われてしまう。
こうなってしまうと、思考はどんどんマイナスな方向に働いていき、世界が一向に閉じられてしまったような、
突破口が見出せない状態になってしまう。

昨日の晩。
ちょうど自分の真上の部屋に住んでいる住人の部屋に、
住人の友達であろう数人の男性が、しきりに大きな音でドアをノックして叩いたり、蹴ったりしてはやし立てている物音が聞えた。
「ばんだい、ばんだい、いるんだろ!!」
と、大きな声で叫びながら、30分近くものあいだ、そうやってドアを叩いたり、アパートの下から呼びかける声が聞えた。
何か問題でもあったのだろうか、住人は一向に部屋から出てくる気配はなかった。
多分、酔っ払って、みんな気分が上がっていたのだろう。
夜中の1時だというのに、大声で笑ったり、叫んだりしていた。
自分は、一人の人間に対してそうやってせきたてている外で繰り広げられているその光景と音が嫌で嫌で、
眼をつむってずっと事が止むまでじっとしていた。
ひょっとしたら、上に住んでいる人は、自殺でもしてしまったんじゃないだろうか。
あまりにもすごい勢いで、ドアを叩いてせき立てていたので、そうさえも思った。
でも、その人たちが去って少しした後、上から歩く物音が聞えてきた。
良かった、生きていたんだ。


きっと、何年か経ったあとの自分が、
今の自分を振り返ったとき、それはそれは大きな後悔と失望を抱くだろう。
今の自分は間違っていると、善くはないと、
自分を客観視している自分には分かっているのに。


saidai.jpg


  1. 2006/05/05(金) 02:05:52|
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すべては

ここ半年間くらいずっと、自分の中でいいようのない停滞感が続いている。
常に頭の中によぎる考えといえば、
相手との権力関係だとか、力関係だとか、相手を蹴落として自分をいかにして優位な位置に立たせるかだとか、
そういった政治といえばそうなのかもしれないし、嫌な男性的な考えが頭の中を支配している。
いつから、こうなってしまったのだろう。
対等で、共通の感覚をもち共有しあう関係でありたいし、そうしたいとも思っているのに。
こうなると、ろくに人と話すこともできない。
頭の中で意識しながら、常にそういう嫌な考えを打ち消しながら相手に身を委ねようと意識して頑張らない限り、ろくに人と話すことができない。
頑張ることの嫌いで面倒くさがりな自分は、そうして人と会うのを避けてしまう。
これが邪魔をして、他人と関係性を結ぼうとするモチベーションが一向に上がらないのだ。
常に不安定で、周りの人が自分より優れて見えてしまう。

自分の存在を相手に植え込ませるためには、
自分がいかにして相手に働きかけるかにかかっているのだ。

すべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべては

自分にかかっている。


高校時代、何もしていなかったせいか、ひとよりあらゆる部分において成長がその3年分遅れている気がしてならない。
高校時代、ずっと一人で家にいて篭っては、お笑いビデオや映画ばかりを観ていて、家族ともろくに口をきいていなかった。
境遇や育ちや状況が恵まれていないわけでもないのに、その身勝手さとわがままさと、そして何より人間愛に欠けたところからくる相手を信頼しようとしない人間性がそうさせたのだ。
親や家族は一切悪くない。すべての問題は自分にあるのだ。

すべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべては

自分に問題があるのだ。


早く、この自分の中にのしかかっているとてつもなく大きな何やらわからぬ抑圧を、はねのけてしまいたい。


subete.jpg


  1. 2006/05/03(水) 03:03:56|
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