逃源郷

世界は闇なのか

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海を飛ぶ夢

 この映画は去年観た「モンスター」同様、法と社会規範について深く考えさせられる映画。自分なりに尊厳死と法について、文献の力を借りてそれなりに勉強してみようという気になった。
 とりあえず、作品としてその内容のでき不出来は別として、映画として尊厳死という問題に体当たりで取り組んだところで評価されたのだと思う。監督はどうやら尊厳死にどちらかといえば賛同の立場をとっているようなので、この映画を通して、スペインの法規制を少しでも緩めよう、もしくは一般国民に尊厳死に対する意識を浸透させようとしたのだと思う。映画の力を考えさせられる。法の形を変えるほどの力は持たないと思うが、きっかけ作りには十分貢献していると感じた。
 物語は、病床に動けずにいる主人公を中心に、その家族と尊厳死の社会的認可を手助けする弁護士の女性と、主人公に心を動かされた独り身で子供持ちの主婦たちの葛藤が描かれている。あくまで主人公のみの視点からではなく、周りの人物にも焦点を当てているところがよかった。人物それぞれの、主人公ラモンの死への決意に対する葛藤も丁寧に描かれていた。特に自分はその中でも、寡黙で思いを口にして出そうとしないラモンの父親に感動した。年をとっていて自分も思うように動けず、ラモンの生活をサポートする機会作りにしか自分の居場所を確保できない父親。もし、自分が寝たきりの状態になったらどうするのか?ただでさえラモンの看病で生活が苦しいのに…。本当に死を望んでいたのは、実はこの父親だったのでは…?でも父親は決して、それを口に出そうとはしない。おそらく、家族を、そしてラモン=息子のことを愛していたからだろう。そう、この主人公の家族は死を望む主人公に対して愛をもってして看病を続ける。自由を剥奪されているのは、この家族であるようにも思える。生活の安定を捨ててまでラモンのために働く兄、ラモンの死を内心では反対しながらも、それを本人の意思に即して判断をゆだね、ラモンを息子同然に看病する義姉、文字の学習などラモンを父親のように慕う甥。自分たちも苦しみながらも、愛をもって主人公を看取っている。
 こう考えると、体の動かない主人公は、家族にも恵まれ、知能も高く詩作の才能もあり、訪れる友人や女性が数多くいるのに死を望むなんて、自分のことしか考えていない傲慢な人間だと尊厳死に異を唱えてしまいそうだが、自分はまったくそうは思わない。主人公は決して傲慢な人間ではない。なぜなら、主人公もまた、周りの人間に対して愛をもってして接していたからである。きっと他の誰よりも周りの家族の苦しみを理解し、常に笑顔で、そしてユーモアと優しさをもってして、周りの人たちと接していたのである。他人の苦しみを理解している人間を、傲慢だといえるだろうか。そんな寛容ならモンだからこそ、訪れる女性は多かったし、弁護士の女性や主婦のロサも彼を愛したのである。しかし、ラモンはそんな彼女たちの愛にこたえることはできない。”たとえば君はそこにいる
わずか1メートル その距離は常人にはわずかなものだ
でもぼくにとってその距離は無限だ
君に触れようと手を伸ばしたくても 永遠に近づけない
かなわぬ旅路 はかない幻 見果てぬ夢
だから死を選ぶ”

劇中でのラモンのせりふだ。体の動かないラモンは”愛する”という行為ができない。頭の中で行う空想の中でしか、愛する女性と”愛する”という行為ができないのだ。ラモンは事故前の若いとき、世界中を旅し放浪していたという。そんな、体を動かし世界を、そして海を飛び回ることで生きる実感を得ていたらモンにとって、体が動かず28年間もベッドで寝たきりの状態でいることは、地獄の苦しみ以外の何物でもなかっただろう。車椅子に乗ることを嫌がったのも、自分の足で世界を歩くことに誇りを持っていたからである。
 生きる実感の喪失した状態。詩を作っても、家族の愛情に囲まれても音楽を聴いても、彼は生きる実感を得ることはできなかったのである。個人の自由な生きる権利が剥奪された状態。そんなラモンにとって、死を選択し、永遠に夢の中で海を飛ぶ夢を見るということが、自由な人間でいるための唯一の手段だったのだろう。しかし、その手段である”尊厳死”が法では許されてはいない。法によって、個人の生きる権利が阻害されているのである。
 同じことが劇中で登場した、ラモンと同じ障害を持つカトリックの神父にもいえる。神父はラモンに同じ障害者の立場から、そしてカトリックの教義に従って、”自殺は罪であり、生を全うするべきだ”と訴える。しかし長い年月の間に確立された、個人の自由な生きる権利が、十分とは言えないが保障された社会において、宗教の教義を個人に対して押し付けるのは強制的であり、人権の阻害に当たるのではないか。政教分離の原則があるように、社会規範は”宗教の教義”にあるのではなく、”法”によって敷かれているのである。ラモンが神父に対して激しく罵倒したのもうなずける。
 このように考えると自分は尊厳死に賛同しているように思えるが、決してそうではない。ラモンの家族の立場にたって考えてみる。家族は愛する人間を失うのである。その悲しみと苦しみを考えると、やはり主人公には生きていて欲しいと思うのが常であり、尊厳死には反対である。しかし、そう思うことだけがラモンへの愛情であり、扶助ではないと思う。本当の扶助とは、相手の立場に立って相手にとって自分ができる手助けとは何かを考えることだと思う。そして、ラモンの願う尊厳死を手助けすることが、本当のラモンに対する思いやりであり、愛情であるのではないかと思う。
 世の中にはさもざまな扶助を必要とする弱者が存在する(ホームレスや障害者、在日外国人の方々など)。援助できる側の人間が、その弱者の立場に立ってその弱者が必要とする手助けとは何かを考え、それを”法”として整備し、そしてそんな社会こそ真の公的扶助の整った社会であるといえるのではないか。だからこそ、死を望むがそれを実行することのできない人間に対し、援助する側はそれを殺人として肯定しない”安楽死”として合法化する必要があるのだ。
 ちなみに自分は、現実の変化に合わせて法を変えていくことに賛同する。現実には、法でまかなえる範囲外の出来事が起こるからである。アリストテレスの言葉を借りて言うならば、”現実の中にイデアが存在する”わけで、現実の中にはさまざまな予測できない可能性が存在しているのである。
 尊厳死には、命とは何か?だとかその生き死にの問題も重要だが、それよりもまず本当に個人の自由な生きる権利を保障するにはどうしたらよいかという問題がはらんでいる。そのためには、法によって整備された公的扶助の浸透した社会を成立させる必要があると自分は考える。
 最後にこの感想は、とても抽象的で具体性を書いていると思われる方々、まったくその通りです。自分はこの分野においてまだ浅はかな知識しかなく、まだまだ勉強不足であることは否めません。ただ自分は少なくとも、弱者と法と公的扶助に関して興味があり、今の段階でそれについて、この映画を軸に考えをめぐらしていたことを書いたつもりです。実はまだ書き足りない部分があるので、そのうち追記としてアップしようと思います。
 またまた最後に、この映画の途中に出てくるラモンの空想の中での空中飛行シーンは素晴らしかった。スクリーンで観て、実際に空を飛んでいるような気になった。自分もよく空を飛んだり、ビルとビルの間を跳ね回る夢を見る。自分もラモンのように、一生夢の中にい続けられたら…、なんて願うこともあるが、それはまた別の機会にということで。


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  1. 2005/05/14(土) 23:55:09|
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