逃源郷

世界は闇なのか

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エレニの旅

 98年度カンヌパルムドールを受賞した「永遠と一日」のギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロス監督の6年ぶりの最新作。
 休日にサークルの友人たちと銀座の映画館で見たのだが、思いのほか混んでいてビックリした。かなりマイナーな映画なのに。やはり”通”には知られている作品なのかもしれない。しかも客の年齢層、かなり高かったように思えた。いわゆる玄人受けする映画なのだろう。館内には、アンゲロプロス作品のこれまでのポスターや、監督自身の映画にまつわるインタビュービデオが流れていて、弱冠興奮した。これぞ映画館!って感じ。それにしても売店で売っていたアンゲロプロスDVD全集は買った人いるのかな。なんか図書館とかに置いてそうなDVDだった。
 そして作品はというと、もうのっけから5個くらい長がつくくらいの長回しで映画の幕は開ける。どうやら自分が観た「永遠と一日」は、彼の作品の中でも異色なようで、つまりびびるくらいの長回しはさほど多くない。なので、オープニングの映像にはさすがに参った。これぞアンゲロプロス流。被写体の群れが、画面の奥からゆっくりと画面手前に近づいてきて、その動きをカメラはやはりゆっくりと見守る。カットが割れることなく。その映像は見る側の人間に、映画の人物と時を共有しているかのような錯覚を感じさせてくれる。人物の人生を一瞬でも感じさせてくれる。そんな長まわしの映像が次々に現れては消えていく。そこに、はかなさも感じた。画面の中を通り過ぎては消えていく、長回しの映像に一瞬だけ登場する劇中の人物たち。彼らのその後は一体…?光が待っているのかそれとも闇なのか?何故か不安になってしまう。カメラは彼らを置き去りにして、別の被写体を中心に映しながら、ゆっくりとまた動いていくのだ。その孤独な後姿を、自分はもう追うことはできないのだ。そう、この映画は、全てが孤独で包まれている。劇中の人物はほとんどといっていいほど薄暗い色の服を着ていて、そしてほとんどセリフをしゃべらない。最近観た「さよならさよならハリウッド」とは打って変わって、必要最低限のセリフしかしゃべっていないようだ。エレニなんか主人公のはずなのに、その声をほとんど発することはない。それなのに、画面からは人物の心情や諸状がひしひしと伝わってくる。アンゲロプロスの腕のすごさを痛感してしまった。
 また、主人公のエレニは故郷を追われた難民という立場だ。さらに劇中では、”ニューオデッサ村”や”白布の丘”といった、行き場をなくした難民たちが住む場所も登場する。軍事政権が台頭する情勢の中で、人々は抑圧に苦しんでいたのだろうか。人々は黒い傘をさし、そしてエレニの父親の葬式では皆木の枝にくくった黒い旗を手にしている。河沿いにおびただしい数の黒い旗が風に揺れる。それは抑圧されて行き場を失くしている難民たちの、苦悩の現われなのだろうか。そして、白布の丘の沿岸には、これまたおびただしい数の白くて美しい布(スーツ?)が、風に揺れて干されている。白い布が風に揺れてはためくと、遠くにはエーゲ海かと思しき海がちらちらと垣間見える。果たしてその白い布は、抑圧された難民の”自由”への渇望なのか?最後、子をなくし夫を亡くしたエレニは、河のほとりで亡骸となった息子のそばで、この映画の中で初めて、激しい叫び声を発し、映画はそのエレニの叫び声をもってして幕を閉じる。

”名前はエレニです。
看守さん。私は難民です。
いつどこへ行っても難民です。
3歳のとき河辺で泣いていました。
水がありません。
石鹸がありません。
子供に書く手紙がありません。”


劇中でのエレニの寝言だ。この言葉に、難民の苦しみの全てがこめられているようで仕方がない。帰る家がない状態とは、今の自分には想像し難い。例えば地震で家が火事で焼けても、保護施設を自治体がおそらく用意してくれるだろうし。そんなことよりもまず、実家が存在するし。そういう物質的な意味での”家”ではなくて、精神が安らぐ場所としての”家”がない状態の人を難民と呼ぶべきなのかな。戸籍にも規定されない、透明な存在。そもそも存在するってどういうことだろう。動く体を持っていること?愛する家族がいること?安らぎを持っていること?なんだかよく分からん。けれども果たして、エレニはこの世の中に”存在”したといえるのだろうか?
 最後に、この映画における音楽について。軍事政権によって抑圧されていたエレニ一家の生活を唯一救ったのが、音楽という存在だった。白布の丘にある”音楽のたまり場”には、どこからともなく楽器を持った人たちがぞろぞろと集まってきて、合図も掛け声もなしに演奏が始まる。音楽がそこにあるのだ。人の心のわだかまりを溶かし、そして凍りついた人の心を溶かすもの。それが音楽。音楽の力を考えさせられる。楽器一つと、それを動かすことのできる体さえあれば、そこに音楽が存在するのだ。場所の如何は問わない。例え廃れた工場の中でも音楽は始まる。人々は踊る。その音楽に合わせて。映画はスクリーンがあって、ある程度の室内の暗さと、そして映写機がなければ映画は始まらない。音楽は万国共通の文化なのかもしれない。
 それにしても、この映画は3時間近くあったようだが、あまりその長さは気にならなかった。それもきっと、一つ一つの画がとてつもなく綺麗に仕上がっていた(特に河で行った葬式のシーンが印象に残った)からかもしれない。とにかく自分はこういう詩的な映画が大好きだ。言葉で語らず、画で見せるという映画。あと、映画観てる時はやっぱり居心地がいい。「バッドエデュケーション」、「海を飛ぶ夢」と当たりが続いているし、ヨーロッパで名をはせている巨匠と呼ばれている監督の映画(クストリッツァやマイク・リー)が次々と公開されるので、どんどん視野広げていきたいと思う。


20050525093328.jpg

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  1. 2005/05/25(水) 08:56:58|
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