逃源郷

世界は闇なのか

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「埋もれ木」、再び。

 今日は、映画『埋もれ木』の小栗康平監督の「ファンタジーとしての映画『埋もれ木』」という講演会を聞くために、早稲田大学に行って来た。今年4月に完成したという小野梓記念館という、ものすごい綺麗な講堂で行われた。人かなり混雑すると思って早めに到着したが、会場は空席が多少あった。やっぱり小栗監督って、あまり世間に知られていない人なのかな。
 監督は講演中、大衆映画と自分の映画の、その作り方の違いを強調していたように思われる。分かりやすい大衆映画は、おそらく誰が観ても同じ所で感動し、そして誰が観ても劇中の人物同士の関係性も等しく同じように捉えるのだろう。つまり映画はただそこに客観的に存在しているのであって、個人の主観性が介入する隙を与えない。そこでは観る側の思考は停止させられ、作り手の意図によって感動が一方的に強制されているとも言えるだろう。
 自分も派手な大衆映画をたまに観ることがある。映画を観ている間は、そのストーリーやCG に感動し、躍起する。しかし、どうだろう。観終わった後には、ただ楽しかったという事実だけが残り、その映画を通して社会を、世界を、自分を、他人について考えをめぐらすことは、まずない。監督はそういった思考の停止状態が、多様で複雑な現実を単純で分かりやすい一元的なものとして捉える傾向を強くさせることを悲観していた。つまり、現実や社会を”見る”目を失って、想像力が欠如していくというのだ。
 小栗監督の「埋もれ木」は、多数の遠くからの長回しの使用や、分かりやすいストーリーと人物の関係性の排除によって、観る側に”見よう”とする力と想像性を与えてくれる。観る側は、受動的ではなく、能動的に映画に関わることを必要とされるのだ。
 もう一つ、この「埋もれ木」の画面構成は、モノや自然や人間が混然一体となっていて、例え人物が喋っている時でも顔をアップにはせず、画面は必ずといっていいほどモノや自然に囲まれている。監督曰く、人間は本来自然と一体をなす存在であって、内と外を区別すべきではないと。帰宅してから、なんとなく普段は夜になったら閉める窓のシャッターを、開けたままにしておいた。

 ちなみに、講演が始まる前大学近くのジャポカレーインというカレー屋で早稲田カレーなるものを食べてきました。値段は600円。メニューには他に東大カレー、慶応カレーなど東京にある大学の名前をとった全部で9つのカレーがあって、これを制覇したらポークカレーがただで食べられるそうです。早稲田カレーは、ポークカレーの横にサラダとから揚げがセットでついていました。全部制覇したら、偏差値がちょっと上がるかもしれません。
 ちなみに講演が終わってから、会場の外をうろついていた監督にお願いして、サインを書いてもらいました。いやぁ?、緊張した…。


小栗康平監督オフィシャルHP→http://www.oguri.info/


夜の早稲田大学大隈講堂
umoregi2.jpg



監督のサイン、分かります?
sain.jpg

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  1. 2005/07/23(土) 01:07:51|
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