逃源郷

世界は闇なのか

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問題は解決に向かうべきでただ感傷に浸っているのはさけた方がいいのかもしれない

もう、本当に反省につぐ反省だ。

仕事の内容ややり方はだいたい覚えてきてはいるものの、やっぱり満足した動きができない。

平日のスーパー銭湯はすごく空いていて、お客さんもかなり少ない。
しかし、一時的にどっとお客さんがまいこんでくることもある。
そうした時に、一番負担がかかり、労を呈するのが、調理場で動いている人だ。
普段自分は洗い場と受付を担当しているのだが、
洗い場は暇なときに隙をついてやってしまえばいいし、こつを覚えればすぐにでもできる仕事だ。
受付も、注文を確認してすぐそばの調理場に伝えれば、あとはけっこう手が余ったりする。
だから。
空いているときは、いかに調理場で働いている人の負担を少なくするかをものすごく考えなくてはならない。
手助けするのにも、あれやこれやとメニューに必要なものを勝手にだしたり準備したりするだけでは、
逆に調理している人の、邪魔になったりさえもする。

立場性を考えなくてはならない。
相手が調理をしているときに、どういうタイミングでどういった手助けをしてあげれば、相手の負担が軽減されるかを考えなくてはならない。
しかし、こういった立場性というのは、一度品を作って経験してみなければ作っているときに相手にどうしてもらいたいかはなかなか解らないものだ。
自分は一度も調理したことがない。
だから、相手の立場性を想像するしかないのだ。
注文が多くて、あせあせして調理している2人の姿を見て、
自分はどんな手助けができるだろうかと常に考えながら、簡単なスープを作ったり卵を持ってきたりしていると、
今度は、自分の担当していた仕事がおろそかになってしまう。
お客の食べ終わった食器がいつのまにか増えていたり、
受付時に何を注文されたか忘れて混乱したり。

一度、一年近く働いているパートのおばちゃんに、
「あなたはやっていることが、すべて中途半端なのよ。
まずは、自分が与えられた仕事をしっかりこなしなさい。」
って言われた。

的確な要領とスピードさえあれば。
まずは自分の仕事を的確にこなし、そうして相手の負担も和らげることができる。
仕事の的確さもそうだし、コミュニケーションも含め、本当に毎日が勉強の連続だ。


今日、夕方仕事場に行ったら、そのパートのおばさんが泣いていた。
息子さんの話をしていて、泣いていた。
もう一人のパートのおばさんと、
「なんで人生こんな風になってしまったんだろうねえ」
ってあははって、笑いながら泣いていた。

このあばちゃんには、いつも迷惑をかけている。
なのにいつも何かしらの差し入れをよこしてくれる。
アルバイトの身分だからって、なんだかいつもとても申し訳なくなってくる。
「そのお返しは、仕事で返せばいい」
って同じパートの人が言っていたけど、それはおばちゃんの仕事を最終的に奪ってしまうことにはならないだろうか。



今日、大学内の野良猫にえさをやっている人と話したところ、
野良猫がたくさん住みついている大学の床屋裏に、
どうやら猫エイズにかかったらしい野良猫が、そこに最近現れるようになったらしい。
その猫は、他の猫に感染すると危険だから、安楽死させてはどうかと言っていた。
エイズの治療をするのにも、膨大なお金がかかるとも言っていた。
他の猫のために、一匹の猫が人工的に殺されることになる。
悲しいとか、切ないとか言うのは簡単なことだから、
この事実をどうしようかという事実に関して考えなくてはいけないと思った。


wareta.jpg


  1. 2006/05/10(水) 03:33:59|
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数1000倍の欠如

あらゆる部分において、人の数1000倍意識して、努力しなくてはならない。

レストランの厨房バイトをやっていると、
そこでの人の働き方や動き方が、まるでその人の生き方というか人生を反映しているようでいてとても面白い。
洗い場、調理場、受付と3つの部門に分かれていて、
例えば調理場を担当しているのなら、あくまでその部分において完璧な仕事をして、他人がやっている仕事には介入しない、という人もいれば、
そういった役割に関係なく、隙の空いているところを自分で見つけて縦横無尽に動き回る人もいる。
おしゃべり好きの人もいれば、そうでない人もいる。
他人のミスをただ咎める人もいれば、次はこうした方がいいとアドバイスしてくれる人もいる。


「手伝ってあげようか」
という言葉の中には、様々な意味が含まれている。
自分のやる仕事がなくなってしまって、何かやりたいという自分本位の欲求から生まれた言葉。
相手が悪戦苦闘しているのを見て、もし自分は相手だったら今こうしてこういうことを手伝って欲しいと、相手の立場に立った考えから生まれた言葉。
手伝ってあげよう、というのに言葉なんていらない。
手伝って欲しいのなら、相手は必ず言葉に出してそう言ってくる。
ただ言葉に出してお願いするのにも、相手の手が空いている時に言わなくてはならない。

プライドが高く、相手を信頼しようとしない自分は、どうやら他人に物事を頼めない性分らしい。
周りの人が2周りも年上であるという遠慮もあるのだが、どうしても自分一人で何もかもやってしまおうとしている。
でも、自分が気づいた仕事を、それを自分ひとりではどうしても出来なくなってしまったときに、それを人にお願いするのは決して悪いことではないと思う。
なぜなら、もし、共通感覚というものが本当にあるとしたのなら、自分も暇なときに何かやってと仕事をお願いされたら、悪い気持ちにはならないからだ。

一人、とても尊敬に値する50代のパートのおばちゃんがいて、
その人は、自分に任された部分の仕事をまずは徹底してこなす。
そうして自分の手が余ったら、何も言わずに他の人がやっている仕事のところに来て、手を貸してくれる。
しかもその手を貸すというのも、ああ今この時にここをもう一人の自分がいて手伝ってくれたらなあ、
と思ったまさにその時に手を貸してくれるのだ。


あらゆる部分や状況において、どうしたら善いのか、善くなるのかと、常に意識しなくてはならない。
自分は他人任せで、そうして気を緩むとすぐに意識が内側に向いてしまう。
自分が嫌いで仕方がないのに、気が付いたらいつもなぜか自分と戦っている。

何がしたいかではなくて、一体自分には今何が出来るかが重要なのに。


自分たった独りで生きている、という意識はどうしてこの身にしみついているのだろう。
あらゆる状況において、”仕方”や、こうした方が善い状態になる、というその方法が身にしみていない気がする。
人倫と、社会性の大きく欠如している自分は、絶対にまだ社会に出てはならない。
でもどこかで規範への嫌悪は拭い去れない。
それはおそらくこの身体と精神性に問題があるのは間違いないのだが。


自分が善いと思った人間に近づきたい。
その根底にあるのは、間違いなく他人への配慮と思いやりにあふれている人間だ。
そうした人の行為は、自分の中に何か暖かい、すべてを許せるようなそうした気持ちを沸き起こらせてくれる。
自分には欠けているものだから。
自分には決してないものだから。
それを思うと、なぜだか泣けてきて、そうしてそれが自分を少しずつではあるけれど人間に近づけていく。


suusennbai.jpg


  1. 2006/05/07(日) 15:58:24|
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理由は、単純明快だ

ひどく途方に暮れて、自分を保つのが苦しくなる時間が多くなってきている。

前は、独りで買い物をしたり、映画を観たり、音楽を試聴したりすることに、何の違和感も抱かずにむしろそうすることを楽しんでさえいた。
しかし、今は。
そうしていると、なぜだかとても自分を保てなくなってしまう。
苦しくなって、何やら分からぬプレッシャーのようなものが重く心にのしかかって来るのだ。
それはきっとおそらく。
自分の行為が自己完結にのみ終わってしまっているからだ。
苦しくなるのはたぶん、この自己という肉体と能力を持った固体を、
自分以外の世界に対して働きかけることをせず、活かしていないからなのだ。
自転車旅行をしに行った時もそうだった。
すべては自分だけのために行われた行為であって、そうすることの意義というのを見つけることができず、気持ちが善い方向に向かっていかないのだ。
趣味や自己完結にのっとった行為というのは、そういう自分以外の世界に対してこの身を働きかけたあとにやってくる一種の休息のようなもので、それに付随するものなのかもしれない。

バイトはしていて、正直楽しい。
自分が今いかに楽しむかではなくて、この場や状況をいかにして善い方向へ持っていくかを頭で考えて、それを実践している過程にあるこの固体は、
とうてい重苦しい何やら分からぬ抑圧からは解放されている。

しかし。

自分はどこかで、”責任”というものから逃れようとしている。
のめりこめばのめりこむほど、そこには競争というものが生まれ、一番だとか、二番だとか、十番だとか、蔑みだとか、
そういう優劣の嫌な感情が沸き起こる。
絶対的に精神的苦痛をともなった敗者という者が、必ず生み出されてしまうのだ。



高校1年生のとき、とても仲の良かった秋田のおばあちゃんが癌で亡くなった。
小さいころからよく面倒をみてもらっていて、自分もおばあちゃんを尊敬していたし、お盆や正月におばあちゃんに会いに行くのがいつもいつも楽しみで仕方がなかった。
でも。
自分は葬式で、葬式でおばあちゃんの遺骨を処理するとき、泣けなかった。
いや、泣かなかった。

自分のことで、精一杯だった。
自分が誰だとか、自分の身のことで精一杯で、心では分かっていても、泣くことができなかった。
自分さえ良ければ、それで良かった。
今の自分のその精神状態が安定して、そうして次の日にはお笑いビデオを観て何もなかったように楽しく笑っていられればそれで良かった。

今でも、おばあちゃんは夢に出てくる。
なぜ出てくるのかはわからないけれど、よく出てくる。

お見舞いに行ったとき、なんでもっと人間らしい優しい言葉をかけてあげることができなかったのだろう。

自分の身が一番大切なこの罪人は、どうしていまだに息を吸い続けているのだろう。
死にたいとか消えたいとか、その前にどうしてこの劣悪非道な罪人は、生かさせてもらっているのだろう。


独りきりで生きるのには、それなりのリスクがあるし、
そこに何かしらの意義を見出さない限り、この固体はただ息を吸ってうごいているだけで、何の意味もない。
しかし。
自分以外の世界と関わって生きるにしても、そこには何かしらの抑圧が生じてくる。


人を殺すか殺さないかの境界線は、いったいどこにあるのだろう。

今日は一睡もしていないせいか、あるいは永山則夫の本を読んでいたせいか、こういう考えばかりが頭に浮かんでくる。


仕組みは、意外と単純で、要は今を生き切っていないだけなのかもしれない。
問題は、理由は、単純明快だ。


tougen22.jpg


  1. 2006/05/05(金) 16:01:37|
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最大の敵は、自分

打算で計算しながら、生きているようでいる自分がとても嫌になる。
どうやら自分の心は、だいぶ壊れてしまったようだ。
いや、ひょっとしたら生まれたときからずっと壊れたままなのかもしれない。
とにかく、心ではなく、頭で動いて計算して動いている自分がとても嫌だ。
最近は、映画や音楽を聴いても、よほどのことがない限り感動することはない。
あらゆる場にいても、ちょっと離れたところから、状況を客観視してまわりに起こっていることが他人事であるかのように感じることもある。
暖かみのない、無機質なロボットにでもなってしまったかのような、そういう感じだ。

超男性性は、権力か、あるいは異性にその矛先が向かっていくものなのだろうか。
自分の欲望のためなら、他人を蹴落とし、蔑む。
あれが良いとか悪いとか、あれが良いとか駄目だとか、
そういう価値基準でものごとを峻別してしまっている自分もものすごく嫌になる。
男性性は、はたしてその身体に影響されているのだろうか。
強い男性性が自分のなかで現れるとき、とてつもない大きなストレスというか、そういったものがあらわれて、
心臓が圧迫されるような、胃のあたりがきしむような、そういう感覚に襲われてしまう。
こうなってしまうと、思考はどんどんマイナスな方向に働いていき、世界が一向に閉じられてしまったような、
突破口が見出せない状態になってしまう。

昨日の晩。
ちょうど自分の真上の部屋に住んでいる住人の部屋に、
住人の友達であろう数人の男性が、しきりに大きな音でドアをノックして叩いたり、蹴ったりしてはやし立てている物音が聞えた。
「ばんだい、ばんだい、いるんだろ!!」
と、大きな声で叫びながら、30分近くものあいだ、そうやってドアを叩いたり、アパートの下から呼びかける声が聞えた。
何か問題でもあったのだろうか、住人は一向に部屋から出てくる気配はなかった。
多分、酔っ払って、みんな気分が上がっていたのだろう。
夜中の1時だというのに、大声で笑ったり、叫んだりしていた。
自分は、一人の人間に対してそうやってせきたてている外で繰り広げられているその光景と音が嫌で嫌で、
眼をつむってずっと事が止むまでじっとしていた。
ひょっとしたら、上に住んでいる人は、自殺でもしてしまったんじゃないだろうか。
あまりにもすごい勢いで、ドアを叩いてせき立てていたので、そうさえも思った。
でも、その人たちが去って少しした後、上から歩く物音が聞えてきた。
良かった、生きていたんだ。


きっと、何年か経ったあとの自分が、
今の自分を振り返ったとき、それはそれは大きな後悔と失望を抱くだろう。
今の自分は間違っていると、善くはないと、
自分を客観視している自分には分かっているのに。


saidai.jpg


  1. 2006/05/05(金) 02:05:52|
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すべては

ここ半年間くらいずっと、自分の中でいいようのない停滞感が続いている。
常に頭の中によぎる考えといえば、
相手との権力関係だとか、力関係だとか、相手を蹴落として自分をいかにして優位な位置に立たせるかだとか、
そういった政治といえばそうなのかもしれないし、嫌な男性的な考えが頭の中を支配している。
いつから、こうなってしまったのだろう。
対等で、共通の感覚をもち共有しあう関係でありたいし、そうしたいとも思っているのに。
こうなると、ろくに人と話すこともできない。
頭の中で意識しながら、常にそういう嫌な考えを打ち消しながら相手に身を委ねようと意識して頑張らない限り、ろくに人と話すことができない。
頑張ることの嫌いで面倒くさがりな自分は、そうして人と会うのを避けてしまう。
これが邪魔をして、他人と関係性を結ぼうとするモチベーションが一向に上がらないのだ。
常に不安定で、周りの人が自分より優れて見えてしまう。

自分の存在を相手に植え込ませるためには、
自分がいかにして相手に働きかけるかにかかっているのだ。

すべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべては

自分にかかっている。


高校時代、何もしていなかったせいか、ひとよりあらゆる部分において成長がその3年分遅れている気がしてならない。
高校時代、ずっと一人で家にいて篭っては、お笑いビデオや映画ばかりを観ていて、家族ともろくに口をきいていなかった。
境遇や育ちや状況が恵まれていないわけでもないのに、その身勝手さとわがままさと、そして何より人間愛に欠けたところからくる相手を信頼しようとしない人間性がそうさせたのだ。
親や家族は一切悪くない。すべての問題は自分にあるのだ。

すべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべてはすべては

自分に問題があるのだ。


早く、この自分の中にのしかかっているとてつもなく大きな何やらわからぬ抑圧を、はねのけてしまいたい。


subete.jpg


  1. 2006/05/03(水) 03:03:56|
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眠れない夜は

夜。

布団の中に入って、しばらくしても、眠れなくなることほどつらいものはない。
だいたい寝る前というのは、ヘッドフォンをつけて音楽を聴きながら眠っているのだけれど、
その音楽に心が陶酔しながらそうしてうとうとと眠りにつくことができればそれに越したことはないのだけれど、
眠れない夜は、ああ眠れない眠れないといらいらばかりが積もって、音楽にも集中できず。
そうして電気をつけて、一旦布団から起き上がって、さて今度は気分転換に漫画でも読んでみようとするのだけれど、それにも集中できず。

頭が眠たくなるのをひたすら待つわけにもいかず、結局また電気を消して布団の中へ。

でも。

こういう時は、眼の前のものに集中できずにいる時は、
昔、遠い昔に触れた、風景や匂いに想いを馳せてみるのが良い。

高校の時に触れた冬。
そうしてその時にかかっていた音楽と匂い。
浪人していた時に通っていたコンビニ。
そうしてそこで立ち読みしていた本や漫画の数々。
イメージがイメージをよんで、もう二度と味わうことの出来ない風景とその感触が、
次から次へと頭の中へ流れてはそうして消えていく真夜中の午前4時。

今、眼の前にあるものに飽食感を覚えてしまったら、
頭の中のイメージをひねり出す様に抽出するのが、良い。
それでも限界を感じてしまったら、今までに見たこともない風景や映画や音楽や事象に眼を向けてみるのが、良い。
そうして、イメージは、世界は、広がる、広がる。



「閉ざされた真っ暗な空間は、そうして真っ白な光に包まれた。」




nemurenai.jpg


  1. 2006/04/28(金) 04:34:53|
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生き切る

『私が何者であるか、ということではなく、
私がいかに在るべきか、が重要な問題なのである。』



体の中に、無数の隙間や穴ができているようで、
それを埋めんと、食べ物を異様に欲して詰め込んでいる。
どうにも空っぽなこの感覚は、いくら食べ物を詰めても詰めても満たされることはなく、満腹になることは決してない。
真夜中に、甘いものや、家にあるものを食べては体の中に入れている。
そうしてそれは、消化されて、体の中から外へ異物として排出されるだけなのに。



『自己は、自ずとそこに存在しているものではなく、
自ら形創っていくものである。』



哲学や思想は。
ただ、寂しいという言葉を、回りくどい抽象的な難解な言い回しで表現しているにすぎないものなのだろうか。
哲学や思想は。
ただ、生きる価値が見出せないということを、回りくどい抽象的な言い回しで言い表しているだけにすぎないものなのだろうか。
哲学や思想は。
ただ、解らないことへのいらだちを、回りくどい抽象的な言い回しで代弁しているだけにすぎないものなのだろうか。



『人間が死ぬとき、
それは心臓が止まるときではなくて、
その欲望が失われるときだ。』



要は、生き方の問題だ。
この、息を吸い、血が流れ、どろどろとした肉と骨で固められた有機的な固体。
要は、この固体の使い途だ。
薬に治療効果があるように、ビタミンに体の栄養を与える働きがあるように。



そういえば、さっきまで車内で読んでいた太宰治の「ダス・ゲマイネ」という作品の中に、
"生き、切る"
という良いコトバを見つけました。
愛に生き、愛に生き切る。
そんなコトバに共感できる人も、いるのではないかと思います。

(2005/8/13 ブログ上日記より抜粋)



ikikiru.jpg

3月に訪れた、三浦半島での巨大風車

  1. 2006/04/26(水) 23:03:17|
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現実を変えられないのなら、それを耐えるしかない、というのはいささか希望のない言葉だ

寛容と受容という言葉は、似ているようでいてどうやら違った意味にあるらしい。そして寛容という一見すると聞えのいい言葉が、実は差別の意図を内包しているかもしれないのである。

「寛容」…心が寛大で、よく人を受け入れること。過失をとがめだてせず、人を許すこと。
「受容」…受け入れて、取り込むこと。

寛容とは言葉通り、自分とは違う他人という存在をありのままに認めること。しかしそれは裏を返せば、あなたはあなた、私は私、お互い違う存在なのだから、一定の距離を保って友好的な関係でいましょう、という超個人主義に立った考え方ではないか。つまり、自己保身に走った考え方だ。違いを受け入れることで、自分が傷つくことをただ恐れているだけなのだ。では、受容とは?自分とは違う相手の存在や、考え、行動をまるごと理解することなのだろうか。
今日観た『ラストデイズ』という映画の監督、ガス・ヴァン・サントが次のようなことを言っている。

「問題を抱えている人がいるが、誰も彼らを助けることは出来ない。そして、彼らがどこにいて、最後の瞬間に何をしていたのか、誰も知らない。」

そう、他人とは結局そういうものなのだ。人間は自分が思っている以上に他人に目を向けていないし、関心を寄せているわけではないのだ。ただ、自分を世界の中心に据えてならない。相互理解(50/50)に慎重にならなくてはいけない。


「現実を変えられないのなら、それを耐えるしかない」

映画『ブロークバックマウンテン』の原作者が、小説版の末尾に寄せた言葉だ。規範と規律とは、そんなに強固なものなのだろうか。これは、いささか希望のない言葉だ。生はより善い方向へ進んでいくものだという信念と実践が、規範に革命をもたらし、現実を変えていくものだと思うし、そうであると信じたい。


kihan.jpg


  1. 2006/04/02(日) 02:08:55|
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発露

この前の短期バイトをして、やっぱり社会人になんかなりたくないって思った。あのサラリーマンの雰囲気というか何というか。他人への配慮に欠けた態度とか身の振舞い方とか。本当に自分のことしか考えていないんだなって思った。自分の欲を叶えることしか考えていないというか。仕事をしてて、何が現場にとって善いことかっていうのは、必ず頭で考えれば分かることだと思う。ただ、上の言われたとおりに動くのは間違っているし、言われたことが間違っているなって思って、それを上に言いにくい現場もぜったいにおかしい。お客にとって、バイト人がどういう動きをしてくれたら良い気持ちになるのかを、しっかり考えなくてはならないんだなと思った。あの最初の仕事は、客の空いている席を覚えておいて、遅れた客にそこを案内するという。
すごく、倫理とか規律というのが失われているんだな、とも思う。”立ち入り禁止”という看板一つにしても、そこが立ち入り禁止になるには必ず理由があるわけで、それを自分が通りたいからという身勝手で超個人主義な自由をはきちがえた理由で通ろうとするのは絶対に間違っている。経緯や場を見て考えれば分かるはずなのに、自分の欲が先に生じて、倫理を無視する。美容室で『サラリーマン金太郎』を読んでいて、10年位前はすごく保守的な既存の倫理、例えば礼儀とかあいさつとか、目上の人間を敬うだとか、そういったものをぶっ壊すとまでは言わないけれど、くそくらえ的な風潮はあったと思うし、実際自分もそういった倫理観の喪失した環境で育ってきたのは間違いないと思う。いじめが起こるのも、人の痛みが分からないという人倫の喪失から起こるものだし、先生に対するいじめとか、学校にゲームや漫画を持ってくるとか。まして”なぜ人を殺してはいけないのか”なんて愚問のなかの愚問の愚問に過ぎない。倫理の消失した中で育ってしまったから、いざ大人になって自立しようとしたときに、その基盤がないから右往左往してしまう。お年寄りとか子供への対応だとか、困っている人を助けるとか。倫理があってこその、人間の自由で主体的な行動が成り立つはずなのに、その基盤がぐらぐら揺らいでいるから、人足りえていない。それが、コミュニケーション不全を引き起こす原因の一つなのかもしれない。
話しはずれたが、大人の中にもそういった倫理観の消失した人がたくさんいるから困る。特にイベントでのお客に多い。それを年下の人間が真似るから、負に負が生じて負の連鎖が起こってしまう。
スーツ姿で街を歩いていると、大多数の中にすがりついているようでとても嫌だった。自分の道は自分で探さなければいけないのに、どこか近道をして楽をしているようで嫌だった。能力も人格もなっていないのに、スーツ姿は人を立派な姿に見せるし、きっと周りもそう思うのだろう。大船に乗った気分でいるのは、きっと楽なことだとは思うのだけれど、どこか居心地が悪い。

haturo.jpg


  1. 2006/03/28(火) 02:32:52|
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若き血

「世界 肯定 自己 前 反省 後悔 過去 努力 自信 死 他人 承認 拒絶 独 愚 善 尊厳 強弱 優劣 自己責任 優しさ 苦しみ 劣等感 逃避 ズレ 愛 光 希望」

googleの用語検索で、上の用語を入力したら、次のようなページが一件だけ検出されました。

http://www.moeom.com/diary/d.php?id=stck2505&yy=2003&mm=01&dd=01&list=all

どく
どく
どく
頭の先からつま先まで。



体の隅から隅々まで。
どく
どく
どく
若き血!
若き血!
若き血!

wakakiti.jpg


  1. 2006/02/17(金) 02:27:21|
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